そしてこの普賢寺谷中世館群に直接関係すると思われる事件が、中世山城の国一揆である。
山城国一揆は、南山城の久世・綴喜・相楽郡でおきた国一揆であるが、その原因は、管領畠山氏の内紛に関係し、畠山氏の守護国が河内・紀伊だったため(政長の本拠は山城で義就の本拠は河内の若江城)南山城はその中間で戦場となったことによる。
 ところで、山城国一揆関係の記録で1471年の文書をみると、西軍が吐師・相楽・上狛野・木津を焼き、椿井上山の新城、狛下司、普賢寺中、下狛大北、田那部別所が西軍に討たれるとされ、「普賢寺中」という国人の存在していたことが知られる。
 そこで山城国一揆関係の資料の中で、普賢寺谷に注目すると、観音寺所蔵の境内図が本遺跡の研究に大きな手がかりとなることが知られている。
 絵図は、天文2年(1533)に再画されたという正長元年(1428)の銘をもつもので、「興福寺別院山城国綴喜郡観心山普賢経法寺四至内之図」と書かれたものである。この絵図の性格については、検討の必要なものであることが知られているが、京田辺キャンパスの分布調査により、実態をどれほど反映しているかはわからないが、中世後半に比定される館跡が発見されるにおよび、同図の歴史資料としての見直しも説かれてきている。
 以下、絵図と関係記録を概観する。
 まず絵図の記載であるが、普賢寺館・大崎館・城館・下司館・堀館・大西館・長岡館・奥西館・上館・高林館・坂田館・和田館・田村館・辻館・菊原館・西館・中西館・今中館・中館などの館があり、その中に「中」が登場する。
 1493年:大北が稲八妻に出張し、普賢寺の上被官が在所を焼く(摂津の軍が合力のために樟葉に到着した時)
 1567年:普賢寺谷で戦いがあって、100人以上が死んでいる。
 1569年:信長が摂津から、普賢寺谷の城・今中・上松・大西・田辺を滅ぼす。
 永正年間と天文年間(16世紀代)に朱智神社石段に今中氏と中氏が登場。
 田宮氏邸:田宮の館。正面は高さ2mの石垣、西側に延長100mの堀、これは田村の館の跡に築かれた。出身は大和葛下郡市場荘、戦国期に定着。1612年に有力土豪として記録に登場する。
 江戸時代の承応2年(1653)の湯釜には城忠兵衛貞長の銘文が記載されている。
 以上が限られた普賢寺谷の中世館関係記録であるが、これらのことから、少なくとも15世紀後半には、この普賢寺谷に館が築かれ、その中には在所と呼ばれる集落も存在し、またこの普賢寺谷の勢力に対抗する集団にとっては、この谷を攻撃しなければならないほどの影響力がこの谷にあったことも推定できることになる。
 したがって、現地に遺されている遺構と絵図を考慮すれば、遅くとも15世紀代にはこの谷に多くの館群と集落から構成される都市的な景観がひろがっていた可能性は高いものと考えられる。
 ところで山城と大和と河内の境の山頂にあって息長氏の祖先神を祀る天王の「朱智神社社記」によれば、神社の神事(八坂神社に榊をおくる)にあたる家筋の朱智(後の普賢寺家)・息長(後の下司家)・三国(のちの)氏が分家して七家になったとされており(普賢寺・下司・大西・菊原・長岡・中西・城)、中井均さんによれば、普賢寺谷の館群に住んでいた人々は、朱智神社の神人か、近衛領の下司など(在地領主で荘園の管理官になったもの)ではとの見方もある。
 またこの谷が興福寺領の荘園:普賢寺郷=朱智荘または朱智長岡荘(高木・南山・出垣外・宮ノ口・多々羅・上・水取・高船・打田・天王)であり、2月11日には東大寺2月堂のお水取の松明を寄進する行事がおこなわれるため、東大寺また興福寺に関係した人々の集落であった可能性も考えられる。
 なお絵図以外の状況として、駒ケ谷で幅4.5mの堀と、30mの方形の区画が確認されている。