本研究の対象とする普賢寺谷中世館跡群は、この普賢寺谷の開口部に近い、京田辺市三山木の西方の南北斜面に所在する。この遺跡に関わる記録は無いが、西に隣接する観音寺は飛鳥時代に起源の遡る寺院であり、この寺院に関連する資料として中世の館群も登場している。
 普賢寺谷中世館群の西に位置する観音寺は、奈良時代に創建された普賢寺の後身と言われる現在真言宗の寺院である。
 白鳳2年(7世紀後半)天武天皇勅願により義淵僧正の開基と伝え、筒城寺とも呼ばれていた。また観心山親山寺を前身とも言われる。
 その後、天平16年(744)には聖武天皇の勅願により良弁上人が再造開基。
 奈良時代以降も断続的に記録が残り、とくに藤原氏の崇敬の篤さがめだつ。
 宝亀9年(778)五重塔建立
 桓武天皇の代に交野に封戸
 延暦13年(794)火事
 仁寿3年(853)藤原良房が本願主となり、円仁が再興
 平安時代以降も藤原氏の崇敬は続き、厄災の後の再興には必ず藤原氏が関わっている。その中で、最もこの寺に深い関係をもち中興の祖を言われたのが近衛基通である。
 治暦4年(1068)火事:藤原師実が再興
 大治元年(1126)藤原忠実が五重塔再建
 治承4年(1180)平重衡の乱入焼失
 文治5年(1189)藤原基通が再興:中興の祖と言われる
 永徳3年(1383)畠山家国が再興
 永享9年(1437)焼失。再建
 近衛基通は摂政を1202年に引退すると、1208年に出家し、1222年に普賢寺に移り住み、ここを居として普賢寺殿と呼ばれ、1233年に74歳でなくなった。6月4日に中ノ山(法楽山)で火葬にされ、現在の墓がその地にあると言われる。
 なお近衛家とは五摂家の一つで、平安末期の摂関藤原忠通の長男基実を祖とする。基実、その子基通とも平清盛の女婿となるが、平氏都落ち以後、基通は後白河法皇と結び、摂関の地位を保持。邸宅の所在地から近衛家を称した。その後、鎌倉幕府と結ぶ叔父兼実の九条家と対立するが、基通は後白河の保護により摂関家領の大半を継承。
 現在、観音寺には国宝の十一面観音が納められているが、それは偶然ではなく、このような歴史的な背景のあったことによるものである。本研究のテーマである普賢寺谷中世館群の成立にも当然深く関わっていたと考えるべきであろう。