同志社大学京田辺キャンパスに所在する普賢寺谷の遺跡群は、15世紀後半から16世紀代に営まれた、中世館跡であった。それらは普賢寺谷の丘陵の尾根を削りだし、谷を埋めて平坦地を造成することにより、土塁または堀によって外部との境界を設けながら、連続する郭配置で密集した館群の構成をみせている。
 それではこのような館群に居住した人物像はどのようなものであろうか。とくに同時期にあった山城国一揆との関係はどのように考えたらいいのであろうか。調査のまとめに代えて、この問題に対する見通しを述べておきたい。
 最初に南山城の城館跡を概観する。 
@神足城(長岡京市東神足)
 1336年に足利尊氏の軍勢催促に応じる。「西岡地頭御家人」。1487年に山城国一揆に呼応して神足友善などが惣国のメンバーとして登場。
A水主城(城陽市)
 鎌倉時代は草内とあわせて上賀茂神社領。畠山政長が築き、1483に古市勢に攻められる。1485には義就方が東軍の光明山に対する。
B岩本城(宇治田原町)
 宇治田原町の岩山に所在する。北側に田原川が流れ、東に六ツ谷という深い谷暦応2年(1339)に細川氏清を大将とした北朝が比叡山別院の医王教寺や田原を討った際に落城したと伝える。山頂に平坦地をもつ。
C草内(くさじ)城(京田辺市)
 1482年12月、畠山政長軍の国人がたてこもり、大将を草内城に配し、そこに狛下司と炭竈氏をひきいれるが、義就に攻めらる。
D若王寺(精華町下狛村)
 重要文化財の智証大師像。三井寺の智証大師の開基と伝える。
E武内神社(精華町)
 石清水八幡宮からの勧請とも。神社の南に秀水と呼ばれる井戸。
F大北城(精華町菱田前川原)
 国人大北氏の館。筒井氏の被官として東軍山城16人衆。1471年の椿井新城の陥落以後、西軍大内氏の拠点。「大北イナヤツマ出帳、普賢寺之上被官人在所焼之」
G稲八妻城(精華町)
 精華町の北稲八間の西方丘陵上に立地する。東に木津川を見下ろし、南の谷からは河内へつながる。「大乗院寺社雑事記」の文明17年(1485)にみえる。稲八妻氏は稲八間を拠点とする国人。
H椿井城(山城町)
 椿井南端の天城山の山頂に立地する。奈良街道を見下ろす交通の要衝にある。奈良街道に面して椿井氏の居館と推定される字城ノ内の丘陵頂部に、城跡はJR線が分断しているが山頂に平坦地があり全容は不明。
「経覚私要鈔」の文明3年(1471)の記事にみえる。
I今城跡(山城町)
 山城町北河原の鳴子川右岸の丘陵上に立地する。奈良街道と伊賀道を見下ろす。「大乗院寺社雑事記」の文明17年(1485)の記事に見える。頂部と西北方向の尾根に数箇所の平坦地をもつ。
J木津城(木津町)
 木津駅から西へ位置する丘陵頂部に立地する。眼下に奈良街道と木津川を見下ろす。「経覚私要鈔」の文明3年(1471)の記事にみえる。規模は南北60m、東西45mで郭の周囲に土塁をめぐらせた単郭構造。室町期木津郷の土豪、木津氏との関係が推定され、木津町の殿城にあったとされる館とセット。
K鹿背山城(木津町)
 鹿背山に所在する西念寺東側の城山山頂にある。木津川とともに伊賀、大坂、奈良の街道をおさえる交通の要衝。「大乗院寺社雑事記」文明11(1479)の条に見える。東西の二つの主郭(東西70m南北30mと40m)を中心として、十数の郭が並ぶ。全体の規模は東西400m、南北300m。室町期木津郷の木津氏との関係が推定されている。
L米山城(和束町)
 中和束の東部に位置する杣集落の北側丘陵上で、木津川沿いの木屋から北上し、中和束の中心部で和束川を横断し、そのまま犬打ち峠を越えて宇治田原の郷ノ口にいたる南北道と、和束川と平行して加茂から信楽に向かう東西道の交差地点を見下ろす。周囲を急斜面で囲まれた独立丘陵を利用し、その北部の別丘陵は家老屋敷と伝えられ、西側にも段差を経て平坦面をみる。史料によれば、興福寺領和束杣の被官であった13世紀中頃の米山在信にさかのぼり、和束町湯船の大智寺も正平18年(1362)に米山義高によって建てられたとする。
M米山出城(和束町)
 和束川をはさんで米山城の対岸に位置する。伝承によれば、米山氏が森田氏と戦った際に築城したとされる。中井氏によれば、立地と地名から城跡の可能性は高いが、城跡に必要な堀切や土塁が見あたらず、平坦面も自然地形の可能性があるとする。
N森田城(白栖城)(和束町)
 鷲峰山塊南斜面に立地する白栖の、通称森田山と呼ばれる丘陵の頂部に位置する。尾根に対して幅3m、深さ3mの堀切を設け、東西60m、南北20mの範囲に5カ所の平坦面をもち、土塁や虎口も残存するとさる。森田氏の存在は永正年間(1504〜1521)とされる米山氏との戦いや、金胎寺への植林の記録に現れ、山城町側の狛氏との関係も伝えられているが、詳細は不明。
N杣田城(和束町)
 中和束から木屋へつづく街道を西に見下ろす上杣田の東側丘陵上に位置する。南北26m、東西25mの平坦面があるが遺構は不明である。
O笠置城(笠置町)
 寺院の坊舎に関係すると思われる山頂付近の平坦面以外に、北西方向の尾根を利用して5段の平坦面が構築され、また山頂の南側を利用した広い平坦面も確認されている。『太平記』によれば、本寺には「堀」「木戸ノ上」「矢間ノ板」「追手ノ木戸」などの記載があるとされるが、応仁年間には大倉氏が笠置をおさえていたという伝承があるが、天文年間には木沢長政方の城郭として利用されていたともされ、その起源が南北朝期にさかのぼるとは考えにくい。

 以上、南山城の代表的な城館跡をみてきた。これらの明確な遺跡に、地名の城館関連名称(古屋敷・堀・宮・寺・垣内・垣内)をあわせてみると、南山城の中世的景観のひとつの特徴がみえてくることがわかる。その最も典型的な例が木津で、要素としては、山城としての木津城・木津川沿いの木津平城(館)そして宮と垣内である。同様に、椿井の場合も山城と垣内、祝園も城・屋敷・寺、精華町の大北城も宮・市・垣内の組み合わせとなっている。
 これらの地名情報の全てが中世に遡るかどうかの検討は必要であるが(「垣内」地名の多くは現在の集落と重複しており、この地名が近世にとどまる可能性もある)、おおむね南山城の中世的景観の基本形は、大字単位で点在する館を中心にその周囲に集落が形成され、宮または堂がそこに付属するものであった可能性が高い。想像が許されるならば、大字単位で代表したのが国人または有力土豪であり、彼らはこのようなおおむね平均的な再生産構造を基に、卓越することのない協力関係を室町時代後期にもったのではないだろうか。
 ところが普賢寺谷の状況はこれと異なる。同谷では同規模の館が密集して配置され、垣内もそれぞれの館に付属するのではなく、谷全体の中で営まれていた可能性がある。また谷の精神的な紐帯を代表する寺院は言うまでもなく観音寺であり、これは他と隔絶する規模をもつ。さらに、遺跡の調査成果をみれば、個々の館の主は、中国製の青白磁を持っていたことにより、十分名主クラスの勢力をもっていたことが考えられるのである。したがって、普賢寺谷の中世的景観とは、南山城の各地でおよそ大字単位で居住していた国人または有力土豪と同じクラスの人々が個々に独立した館を営んで密集して生活していたことになるのである。
 こういった谷に館を密集される状況は、南山城では椿井地区にやや類似した傾向がみられるものの、全国的にみても例は少なく、あえて比較するならば、福井県勝山市の平泉寺や和歌山県の根来寺など、政治・経済などでその地域に大きな影響力をもった寺院を中心とする城塞都市との共通性が指摘できるかもしれない。
 先に述べたように、普賢寺谷館群の居住者は、朱智神社関係の人物につながると言われる。また観音寺と朱智神社が関係していることも周知の点である。したがって、これらの点をふまえれば、これだけ大規模な都市的景観をもっていた普賢寺谷が山城国一揆関係の記録にほとんど登場しない理由として、彼らが一般の南山城の国人や土豪とは異なった権利関係にあったことを強く指摘できる可能性もあり、それが朱智神社と観音寺の関係によるものであるならば、この谷の景観が室町時代後期に顕著となる寺社を中心とした城塞都市と類似している点は、あながち偶然ではないかもしれない。
 朱智神社は祇園社との関係があり、観音寺は興福寺を本家としていた。戦国期の南山城が畠山氏の内紛に翻弄されていた時、この谷はその中でこれらと交じらない異質な空間を営んでいたのだろうか。