1976年に分布調査が行われ、14カ所にのぼる遺跡と遺物の散布地が確認された。
@第1地点
 遺物散布地。都谷館跡に関係する平坦地の可能性あるが、削平されている。
 中国製染め付け・白磁碗・白磁皿、備前窯甕、丹波窯擂り鉢、信楽窯擂り鉢、瓦器甕、土師器皿、瓦器釜、瓦。
 瓦器釜は16世紀の大和系、備前甕は16世紀、丹波擂り鉢は17世紀以降、白磁皿は16世紀の端反皿。
A第2地点(都谷館)
 南北25m、東西35mの平坦地で、東南部に堀をもつ。16世紀の土師器釜が出土。
B第3地点(新宗谷館)
 5カ所の平坦面が確認された館跡。土塁・堀・井戸・通路が確認されいる。
C第4地点
 新宮社の東約100mの丘陵先端。東西30m、南北20mの平坦面が確認された。東・西・南が人為的に削平されている。土師器皿出土。
D第5地点
 現在水田となっている低地で近世の陶磁器が散布している。
E第6地点(マムシ谷須恵器窯跡)
 奈良〜平安時代の須恵器窯
F第7地点
 観音寺の北方で丘陵内部。チャート製の剥片が採集された。
G第8地点
 下司古墳群南約100m。近世の陶磁器が採集された。
H第9地点
 須恵器と備前窯陶器の散布地
I第10地点
 都谷館の北東で、現在の厚生館保健センター付近。丘陵を削平した平坦面が4カ所確認され、そのうちの一部は廃寺となった浄蓮寺と伝える。採集された遺物はいずれも近世以降である。
J第11地点
 新宗谷館の西の谷。近世の陶磁器が採集された。
K第12地点
 観音寺東方の現在の西門周辺。観音寺の東大門の推定にあたり、土師器皿と陶器が採集されている。
L第13地点
 妙覚寺の東方、近世陶磁器が採集されている。
M第14地点
 大御堂裏山古墳と下司古墳群に挟まれた谷の奥で、複数の平坦面と井戸が見つかっている。採集された遺物は無く、中世の館の可能性が指摘されているが、近世以降の畑とも考えられる。

 以上が1976年におこなわれた分布調査の状況であり、5カ所で中世に遡る館の可能性が指摘されている。
 また採集された遺物の時期から、その成立が15世紀の遡ることが指摘できる。

 この分布調査の結果を受けて1977年に都谷館で発掘調査がおこなわれた。
 調査は都谷館の最大郭でおこなわれ、削平して平坦面を作り出したその山側によって、10×15m規模の長方形区画が2カ所で南北に並んで検出され、その周囲に溝が巡ることから、建物跡と推定さている。
 出土した遺物は、瀬戸天目碗、中国製青磁碗、土師器皿、信楽窯擂り鉢、備前窯甕、中国製白磁皿、中国製染め付け、青白磁壺、瀬戸壺、大和系土師器釜、信楽甕などであり、このうち信楽擂り鉢は15世紀代、常滑甕も15世紀代であり、この館の出現が15世紀に遡ることを示している。
 また青白磁壺は一般集落ではみかけない高級陶磁器であり、この館の主の性格を示すものと言える。

 以上、既往の調査をまとめると、京田辺キャンパスの所在する普賢寺谷北斜面には、少なくとも4カ所の館跡があり、その成立時期も15世紀に遡ることが指摘できるため、これらの調査は絵図および記録に遺された山城国一揆とそれに関係する館の実態を明らかにするものと考えられる。