普賢寺谷は、木津川左岸で南山城のほぼ中心にあたる京田辺市三山木西方に位置する。南北を丘陵に挟まれた東西に長い谷であり、その中央を京都・大阪・奈良(山城・河内・大和)の3府県の境界が交わる高船を源流とする普賢寺川が流れる。規模は東西約5キロ、南北約1キロである。現在谷の開口部に近いその北斜面の多くを利用して同志社大学京田辺キャンパスが営まれている。
 すでに述べたように、普賢寺谷は、木津川が古代・中世において畿内の大動脈としての役割を果たした南北の軸であったのに対して、北河内から近江に抜ける東西の最短ルートとしての役割を果たし、古代では和田萃の「河内の古道」(『環境文化』51)によれば、三山木の古山陰道山本駅から河内の樟葉へ一日の行程が記され、中世末期には徳川家康の逃亡ルートとして歴史の表舞台に登場する。
 同志社大学京田辺キャンパスには弥生時代以来続く遺跡が集中しているが、それはこういった普賢寺谷の交通路としての重要性を反映したものであり、本研究のテーマである中世館群も、こういった歴史的な環境の下で考える必要がある。
○田辺天神山遺跡
 正門から南東へ丘陵を上がったところにある弥生時代後期の集落遺跡。1968年に発掘調査がおこなわれ、広場を中心にして竪穴住居址のならんでいる様子がわかった。日常生活には不向きな高台で、木津川と普賢寺川の合流点を見下ろす位置にあることなど、争乱状態にあったとされる弥生時代後期の高地性集落遺跡の特徴を示している。
○下司古墳群
 デイヴィス記念館の南、テニスコートを見下ろす丘陵斜面の雑木林の中に所在する。7世紀はじめから8世紀はじめまで築かれた大小8基の古墳があり、そのうちの5基については横穴式石室をそのまま保存している。古墳の配置と石室の規格に特徴があり、古墳時代終末期の地域社会を復原する基礎資料となっている。