@平成14年度(2002年度)の調査について
○調査期間 2002年11月25から27日、3月19日
○調査参加者 渡辺悦子、市澤泰峰、行實幹人、真々部貴之、斉藤夏果、中川敦之、松田尚子、足立寛行、林耕太郎、有吉康徳、疋田由香里、杉本祥子、大岩根安里
○調査概要
 新宗谷館跡は、京田辺キャンパスの知真館3号館の南西に位置する。京田辺キャンパスの所在する丘陵から南西方向にのびた尾根の稜線を利用してつくられた連郭構造の館遺跡である。この丘陵にかかる遺跡の調査については、1976年に京田辺キャンパスの造成に際して分布調査が行われ、田辺校地第3地点として、確認されていたものであり、その際にも、陶磁器の細片が採集されている。またこの分布調査の結果を受け、1977年には本遺跡の東に位置する都谷中世館跡(A郭)の調査が行われ、15〜16世紀代の遺物を確認している。
 なお、「興福寺別院山城国綴喜郡観心山普賢教法寺四至内之図」によれば、普賢寺川を挟んで立ち並ぶ館群のひとつとして、本遺跡該当部分に「城館」の記載があり、その製作年代の問題とは別に、描かれた風景と対応する遺構の存在として注目される。
 現状では、南北150m、東西100mの範囲内で、普賢寺川を見下ろす南斜面を利用した大小8箇所の平坦面が確認されている。調査はそのうちで最も大きな郭(約50m四方)を対象としておこなった。
 今年度は、表土から地表面までの深さと土層の堆積を確認するために、5カ所のトレンチを設けた。この平坦面は、南北にのびる尾根の稜線およびその南東斜面を削平して造営されたもので、西辺と北辺および東辺の北端は、削り残した地形がそのまま土塁の役割を果たし、南東辺が普賢寺川を見おろす形で開口している。
 なおこの郭の東は、本来この尾根から分かれた別の尾根だったと思われるが、郭の東北部に残された土塁と平行する形で大きく削平され、空堀を隔てて東西、南北ともに50mを越える広い平坦面が存在する。これらの状況から今回対象とした郭の詳細をみれば、南東辺の北端にみられる土塁状の高まりは、偶然ではなく明確な意志を持って残されたものと考えられることになり、そうであるならば、この郭の平面形は、モデルとなったなにかがあって、それを倣ったものであった可能性がでてくる。
 それではそのモデルとなったものはなにか。現在このテーマでは、小島道裕氏による「室町殿」を基準とした地域社会の説明が注目されている。
 さて、今回試掘トレンチを設けた郭の構造であるが、地形と土塁の配置状況から推測して、本来のこの郭への進入ルートは南側の丘陵先端であったと考えられ、南に開いた庭をもち、東を奥として、西を入り口とした構造が推定できる。なお、郭の南辺を囲んでいる土塁は、その先端が東の境界におよばず、その延長上には、あたかも門を構えたような、低い段の高まりがみられ、その南には狭い平坦面がみられる。一方郭の内部は、一部が耕作地に利用されていたと思われ、畝の痕跡と溜井状の土坑が数カ所で認められる。
 今回の試掘トレンチはこういった状況を考慮して、建物をおいた可能性の高い平坦面中央部とその周辺である北辺および西辺の土塁際、そして入り口の門跡と思われる南辺に設けた。
 調査によれば、いずれも耕作土の下は約30センチで地山に達する。包含層は確認できなかったが、北側のトレンチでピットになる可能性のある遺構が確認された。出土遺物は、北側のトレンチで釘が、南の丘陵先端の平坦面から白磁が表面採集された。


A平成15年度(2003年度)の調査について
○調査期間:2003年9月8〜12日
○調査参加者:渡辺悦子(当館調査補佐員)・市澤泰峰・有吉康徳・中川敦之・斎藤夏果・北中達也・疋田由香里・大橋優美・橋口英恵・松本尚子・西村泰幸・小林史朗・谷口浩史・竹井良介・里見浩司・長束愛子(学部学生)
○調査概要
 今年度は、このうち最も規模の大きな中央の平坦面を対象として、郭内における建物配置の把握を目的として、トレンチを設定し、調査をおこなった。
 今回の調査トレンチはこういった状況を考慮して、南に庭、北に建物があったとの仮定をもとに、北側の斜面に平行する形で、おおむね北東ー南西を軸とした長さ15m、幅1mの範囲に設定した。
 調査は、8日に調査区の設定をおこない、15mのトレンチを北から9(長さ4m)・7(9m)・8(2m)トレンチとした。
 層序は基本的に2層で、8トレンチのみ1層下部に該当する灰褐色シルト層をもつ。1層は表土の腐植物層、2層灰白色シルトであり、基盤層は黄褐色の細砂からシルトである。なお地表面から地山面までの深さは約30pである。
 遺構面の精査は第2層上面と基盤層面で行った。
 第2層上面の精査では、7トレンチの全面から直径30p前後の浅いピットが検出された。埋土はいずれも表土に似た灰色のシルトである。また、同時に8トレンチの境付近から、2層が西へ向かって下降し、1層および1層下部の除去により直接基盤層に達していることも確認された。
 遺物は、第2層上面で、中国製染め付け破片(玉取獅子)・釘・炭化木の細片・かわらけ・近世磁器・ガラス片などがみられた。 基盤層上面の精査では、トレンチの全面にわたり、直径15pから30p程度のピットを検出することができた。このうち7トレンチ西端のピットは底面に小石を充填しており、規模は小さいが、柱穴の可能性が考えられる。
 一方、直径30p程度のピットは7トレンチの中央西寄りと、東端および9トレンチの西端から検出された。埋土は7トレンチの中央西寄りと9トレンチの西端が共通して灰褐色シルト、7トレンチ東端のピットは平面形が方形で白色の細砂である。
 出土遺物としては、7トレンチから鉄さいが見つかっているほか、時期を推定できるものはみつかっていない。
 今回の調査により、遺物情報としては、原位置は移動しているが、室町時代後期の中国製磁器が発見され、この館跡が該期の所産であることをあらためて確認することができた。また、詳細な時期は不明であるが、カワラケの破片も見つかっており、館での生活の痕跡を知る手掛かりとして注目される。
 遺構情報で注目されるのは、8トレンチから西へ向かって下降する地形が2層上面と基盤層で確認されたことである。この状況は、現在の地表面でも看取される景観であり、現在確認できるその範囲は、館の西端の南北約10m、東西約5mのおよぶ。本来平坦面を必要とする館の敷地内において、こういった窪地は意図的に設けられたと考えられるものであり、今後は、庭園や池の可能性も考えていきたい。
 また、館内の建物配置を考えるために、当時の生活面をおさえることも重要である。今回の調査地は、基盤層までの深さが浅く、また第2層には根が縦横に入り込んでいる。生活面の確認には極めて困難な状況ではあるが、慎重な調査により、この課題を克服して行きたい。