南山城のたずねておきたい遺跡や歴史遺産

2004年4月版

選:森 浩一 解説:鋤柄俊夫


1.笠置寺(笠置町)
 笠置山上にある真言宗の寺。「今昔物語」は開創を大友皇子とする。役行者伝説を始めとする古くから修験道の霊地としても知られ、高さ15.7mにもおよぶ弥勒石仏ほか、薬師・文殊・虚空蔵などの石仏が並ぶ。また元弘の乱(1331)では後醍醐天皇が行在所を置き、南北両軍の戦場となった。

2.金胎寺と鷲峰山(和束町)
 和束町と宇治田原町の境界にたつ鷲峰山の山頂南斜面に位置する。真言宗。山号は鷲峰山。修験道を代表する役小角が開基し、泰澄(北陸の白山信仰)が再建した伝承をもつ。鷲峰山最高峰の空鉢峰に正安2年(1300)銘の宝篋印塔が建ち、寺宝として呉越国の銭弘俶八万四千塔をもつ。また加茂からの入山ルートにあたる和束川右岸(白栖)には、やはり正安2年(1300)の銘文をもつ高さ4.2mの磨崖仏が建つ。

3.鋳銭司跡(加茂町)
 我が国最初の貨幣である和同開珎などを鋳造した遺跡。「三代実録」の貞観7年(865)に「山城国相楽郡岡田郷旧鋳銭司山にて銅を採る」と見える。京都府と加茂町の調査により、青銅を溶かした坩堝や和同開珎が発見されている。なお鋳銭司のすぐ西にある流ケ岡には現在も銅鉱があるという。

4.恭仁京跡と山城国分僧寺跡(加茂町)
 瓶原のほぼ中央、現在恭仁小学校の北側の土壇が山城国分寺金堂跡と言われているが、天平12年(740)に聖武天皇によって築かれた恭仁宮の大内裏もほぼその地に重複すると考えられている。恭仁宮の造営は天平13年に平城の市を移動し、同14年に朝賀をおこない大宮の垣を築いているが、同時に紫香楽宮の造成を進める中、同15年には恭仁宮の造営が停止されている。国分寺は、元来加茂町河原または山城町上狛にあったとも言われるが、天平18年に廃都となった大極殿が国分寺として施入されており、この時現在の地に移動したと考えられている。調査により大極殿や官衙施設が発見されている。

5.海住山寺(加茂町)
 海住山中腹にある真言宗の寺。寺伝によれば、735年に聖武天皇の勅願により良弁が開基、藤尾山観音寺と号す。後に1207年に笠置寺の解脱上人貞慶が再興し、補陀落山海住山寺に改称。国宝として木造の十一面観音立像と五重塔・文殊堂を有する。

6.浄瑠璃寺と岩船寺(加茂町)
 加茂町の南部、奈良県境に近い当尾の山中に所在する。共に真言律宗。浄瑠璃寺は永承2年(1047)に当麻寺の義明を本願とした建立とされ、平安時代に流行した阿弥陀浄土信仰形式伽藍を残す唯一の寺。岩船寺は天平元年(729)に聖武天皇の勅願による行基の開基と伝える。また岩船寺の鎮守社が白山神社であることなどから、当寺が当尾を霊場とする山岳宗教者の一拠点であった可能性がある。また周辺には鎌倉時代を中心とする石仏群が集中し、当尾の石仏として有名。

7.岡田鴨神社(加茂町)
 加茂町北に所在する。「山城国風土記」によれば、神倭石余比古(カムヤマトイワレヒコ)の案内者として賀茂建角命が遊幸した場所と伝える。古代の賀茂氏の分布を知る上で重要。岡田の地名は和銅4年(711)に新設された東海道の駅の名。木津川に沿って伊賀に続く途中にあたり、後に船屋と呼ばれ、加茂渡がもうけられた。

8.木津惣墓(木津町)
 井関川東岸の、現JR木津駅の西約200mに所在する。塔身総高が3.45mの大型五輪塔で有名。花崗岩でつくられている。台石の銘文によれば正応5年(1292)に木津僧衆が木津五郷を勧進し、村人の結縁を得て造立。木津五郷は江戸時代の千童子・小寺・大路・上津の五村をさすというが、詳細は明らかでない。

9.石のカラト古墳(木津町)
 兜台に所在。史跡。別名カザハヒ古墳。8世紀初めごろに構築された終末期の上円下方墳。下段は一辺約14m。下段の一部に葺石が残っていた、上段の葺石はほとんど失われていた。内部主体は凝灰岩の切石による横口式石槨。

10.木津(木津町)
 現在の木津町木津にあった古代にさかのぼる木津川の津。木津川が泉川と呼ばれたことから「和泉木津」「和木津」とも。平城京から奈良山越の山背道を通りこの地を経れば、水上交通によって瀬戸内や近江に達することができる交通の要衝であり、奈良時代から南都諸寺の木屋がもうけられた。また中世には木津の東に位置する城山に鹿背山城(鹿山(ロクザン)城)が築かれ木津川と共に伊賀・大坂・奈良の各街道をおさえた。

11.吐師七ツ塚古墳群
 甘南備丘陵から東へのびる台地上に位置する。現在3基が残っている。築造年代はいずれも5世紀(古墳時代中期)と考えられている。東墳は一辺20mの方墳、西墳は直径25mの帆立貝式古墳、南墳は直径22mの円墳である。土師氏との関係が考えられる。

12.和伎神社(湧出宮)と居籠祭(山城町)
 平尾の東の丘陵麓にある。正式名は和伎座天乃夫岐売神社。一夜にして湧出した森の中にあるとの伝承から湧出宮ともいう。居籠祭はかつて陰暦の正月の午.未,申の3日間行われていた。起源は崇神天皇と戦った武埴安彦の敗死後悪い病気が流行し、死者の霊の祟りであると考え、村人が霊をなぐさめるために始められたと伝える。

13.泉橋寺(山城町)
 木津川北岸の堤防下、通称新在家の集落東南端にある。玉竜山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。橋寺、泉橋院ともいう。創建は天平12年(740)あるいは同13年とされ、行基が泉川(木津川)架橋の時その供養と維持のために建立した。

14.高麗寺跡(山城町)
 上狛の東方、木津川北岸の段丘上に南面して建立されていた古代の寺院跡。白鳳期後半の川原寺式とよばれる軒瓦は久世・綴喜・相楽各郡の白鳳期寺院跡から共通して出土する。また文字瓦は山城国分寺と共通する。なお寺の東方と西北方に二期の瓦窯跡がある。高句麗系渡来人の氏寺か。

15.椿井大塚山古墳と平尾城山古墳(山城町)
 山城町に所在する代表的な前期古墳。椿井大塚山古墳は全長180mの前方後円墳。後円部に竪穴式石室があり、鏡・短甲・武器などが出土。36面の鏡のうち32面は三角縁神獣鏡で注目された。3世紀末から4世紀初頭。平尾城山古墳は木津川東岸の三上山から西にのびる尾根上(96m)に築かれた全長約110mの前方後円墳。3カ所の埋葬施設をもち、築造年代は4世紀なかばとみられている。

16.蟹満寺(山城町)
 京都府相楽郡山城町にある真言宗の寺。「元亨釈書」によれば、ヘビに襲われた少女を救うために、カニが恩返しに一族を率いてヘビと戦い共に死んだ冥福を祈るために建てたと伝える。本尊の釈迦如来座像は奈良時代の特徴が顕著な丈六金銅像で国宝。

17.稲八妻城跡(精華町)
 北稲八間集落西方の丘陵上の上水道配水池の付近にあった中世の山城。稲屋妻城とも書く。東に遠く木津川を望み、眼下の集落を隔てて奈良街道を押さえる。 明応2年(1493)八月、古市方の手勢井上九郎の兵と、守護を認めない国人衆数百人との間で合戦が行われ、これが文明17年におこった山城国一揆の最後の舞台となった。
18.祝園神社(精華町)
 木津川の自然堤防上にあり、鎮座地をハハソノモリという。奈良時代に遡り、健御雷命・経津主命・天児屋根命の三神を祀る。当社の特殊神事にいごもり祭りがあり、毎年正月甲申の日より3日間にわたって行われる。同祭りは崇神天皇に背いて当地で斬死した武埴安彦の霊を鎮め、また戦地となって荒らされた田畑の復興、五穀豊穣を祈る目的で始まったと伝えられる。

19.禅定寺と信西塚(宇治田原町)
 禅定寺の前身寺院は桑在寺と伝える。宇治田原北部の山岳地帯は山岳宗教の修行場とされていたが、摂関家の援助をうけて、東大寺の別当ともなった平崇が長徳元年(995)に建立。道長など摂関家の後援をうけて一千町歩の杣山を有した。本尊の十一面観音立像をはじめ日光月光菩薩立像・四天王立像・文殊菩薩騎獅像・地蔵菩薩半跏像、および禅定寺文書は重要文化財。信西塚は大道寺の南端にあり江戸時代の宝篋印塔がたつ。信西が平治の乱で宇治田原に逃れ、この地で自害したという。近くに信西首洗い池と称する小池がある。

20.高(多賀)神社(井手町)
 草創は綴喜郡兎手玉津岡の東嶽に降臨した神霊の社を、天平3年(731)に橘諸兄が遷座したと伝え、井手の玉津岡神社と同じ由緒をもつ。「延喜式」神名帳にみえる高神社に比定され、境内周辺の丘陵に高神社古墳群が分布する。地名の高も重要な歴史遺産である。

21.月読神社(京田辺市)
 由緒は不明であるが、大隅国から当地へ来住した隼人らが祀ったものと伝える。三代実録・貞観元年(859)正月27日条に樺井月読神がみえ、「延喜式」神名帳にも月読神社とみえる。江戸時代末までは神宮寺の法輪山福養寺が管理した。大隅・薩摩の隼人が大嘗祭などに奏した隼人舞を、現在10月に奉納している。

22.大住古墳群(京田辺市)
 大住の字東村・林・岡村の集落の中間に並ぶ2基の前方後円(方)墳。全長は東の車塚(チコンジ山(智光寺山)古墳)が67m、西の南塚(ションベ池古墳)が60m。南塚から竪穴式石室が発見されている。時期は古墳時代前期終わり頃。周辺に古墳時代後期の古墳も存在する。

23.甘南備山と薪の一休寺(京田辺市)
 甘南備山は大阪府境に近い薪の西南端に位置する。標高は217mであるが、周辺の生駒山脈の山が低いためそびえたってみえ、富士山に似た山容と相まって神の山と信仰され、大和竜田の三室山、飛鳥の三諸山とともに神(甘)南備山とよばれてきた。平安京の造営あたり、南北の基準線にされたとの説もある。 一休寺は臨済宗大徳寺派の寺。本尊は釈迦如来。鎌倉時代の創建であるが、室町時代に一休が再興したので薪一休寺と呼ばれる。一休の画像・木像があり、本堂は室町時代の禅宗仏殿の典型。酬恩庵庭園(名勝)がある。

24.草内渡(京田辺市)
 河内から普賢寺谷を経由して田辺・興戸を通り、木津川を横断して近江へ向かう最短コースの渡しであり、木津川上流の飯岡・山本・藪、下流の富野・水主より重要な位置を占める。本能寺の変の後に徳川家康が堺から信楽に脱出したルートとしても有名。その地の重要性により、天長年間(9世紀前半)の伝承と西大寺の叡尊による十三重塔をもつ法泉寺と、文明年間には草路城(現在の咋岡神社か)の造営が知られている。

25.飯岡古墳群(京田辺市)
 木津川左岸にある独立丘陵。車塚をはじめとする古墳時代前期の古墳がみられる。車塚は竪穴式石室をもつ前方後円墳で全長86m、十塚古墳は竪穴式石室をもつ円墳で馬具と3面の銅鏡が出土した。弥生時代の高地性遺跡もあって、天神山遺跡と一体のものか。

26.天神山遺跡(京田辺市)
 同志社大学京田辺キャンパスの東、国際中・高の寮に接する丘陵頂部に所在する。弥生時代後期の集落遺跡。1968年に発掘調査がおこなわれ、広場を中心にして竪穴住居址のならんでいる様子がわかりました。日常生活には不向きな高台で、木津川と普賢寺川の合流点を見下ろす位置にあることなど、争乱状態にあったとされる弥生時代後期の高地性集落遺跡の特徴を示している。

27.筒城宮址碑と下司古墳群(京田辺市)
 同志社大学京田辺キャンパスの位置する一帯は綴喜郡と呼ばれ、この郡内に仁徳天皇の皇后磐之姫が住んだ筒城宮、および継体天皇の都があったと推定されている。京田辺キャンパスの正門北には、京都市中京区で博多織を販売していた三宅安兵衛(1842〜1920)の遺志により、それを顕彰した石標が建てられている。この碑はもと学外にあったが、存続があやうくなり、学内で保存することになった。なおキャンパスの南斜面を降りた普賢寺川右岸の多々羅には磐之姫が滞在した家の主である奴理能美にちなむ養蚕の石碑も建てられている。下司古墳群は京田辺キャンパスの内西奥のデイヴィス記念館の南、テニスコートを見下ろす丘陵斜面の雑木林の中に分布する。7世紀はじめから8世紀はじめまで築かれた大小8基の古墳で、そのうちの5基については横穴式石室をそのまま保存している。古墳の配置と石室の規格に特徴があり、古墳時代終末期の地域社会を復原する基礎資料となっている。

28.都谷中世館群(京田辺市)
 同志社大学京田辺キャンパスのたつ丘陵の南斜面に位置する。普賢寺谷北斜面の尾根に平坦面をつくりだして築かれた室町時代の館群である。分布調査により、京田辺キャンパス内で3カ所以上の館が確認され、発掘調査で中国製の陶磁器や和鏡などがみつかっている。なお普賢寺川をへだてた南の丘陵でも同様な館がみつかっており、全国で類をみない中世の館群遺跡の可能性がある。

29.大御堂(観音寺)(京田辺市)
 奈良時代に創建された普賢寺の後身で、山号は息長山、真言宗。本尊は天平時代の木心乾漆の十一面観音立像(国宝)。普賢寺の創建は天武天皇の勅願で義淵の開基と伝え、天平16年(744)に聖武天皇の勅願で良弁が発展させたとされる。その後歴代の藤原氏本流が本寺を支え、特に平氏の南都攻撃後の藤原(近衛)基通による復興が有名である。

30.朱智神社(京田辺市)
 普賢寺谷西奥の天王集落西方の高ケ峰の山頂に鎮座する。祭神は迦爾米雷命で、息長帯比売(神功皇后)の祖父にあたるという。綴喜郷は古代にあって息長氏一族と関連深く、朱智神社は息長氏の祖神を祀る社として創祀されたと伝える。社記によれば、草創は仁徳に遡る朱智天王と、大宝元年(701)の神託により山城・大和・河内境の頂上に建てられた大宝天王を、延暦12年(793)にあわせたものだったが、貞観18年(876)に大宝天王は感神院(八坂神社)に遷座し、祇園祭りに際しては朱智神社の榊が八坂神社に移される「榊遷」がおこなわれている。

31.石清水八幡宮と高良神社(八幡市)
 男山丘陵の山頂に所在する。祭神は誉田別命(応神天皇)・息長帯比売命(神功皇后)・比刀iひめ)大神。859年僧行教の奏請により、宇佐八幡宮から勧請された。朝廷から伊勢神宮に次ぐ宗廟として崇敬を受け、また、源氏の氏神で武神としても尊崇された。高良神社はその摂社の一つで、一の鳥居内頓宮の西南にある。『徒然草』にもでていて、筑後の高良神社との関連がいわれている。なお放生会の放魚式は有名である。

32.鳩ケ峰経塚(八幡市) 
 男山山頂の鳩ケ峰から、天徳4年(960)と永久4年(1116)の紀年銘をもつ経塚のあったことが伝えられている。鳩ケ峰の支峰には曹洞宗の神応寺があり、書院は伏見城から移したと伝えられる。寺宝の行教坐像は平安時代初期の肖像彫刻の傑作である。

33.西車塚古墳と八角堂(八幡市)
 八幡清水井の高野街道西に位置する古墳。男山南丘陵の東端にあたる。西車塚は全長115mの前方後円墳。古墳時代前期前半。円頂部平坦部に明治の神仏分離の際、男山山上から八角堂が移築されている。八角堂は神仏分離以前、石清水八幡宮境内の西谷にあった。順徳帝の御願あるいは建保年中(13世紀初め)に第13代検校の善法寺祐清によって建立されたと伝える。

34.東車塚古墳と松花堂(八幡市)
 八幡清水井の高野街道東に位置する古墳。男山南丘陵をおりた平野部にあたる。東車塚は全長94mの前方後円墳。築造は4世紀末から5世紀初頭と推定。後円部は松花堂の庭園築山に利用されている。 松花堂はもと石清水八幡宮の宿院泉坊の傍らに松花堂昭乗が建立した堂。寛永の三筆と称された昭乗は石清水八幡宮社士松田甚六秀知の猶子として入山し鐘楼坊・滝本坊を経て泉坊に移り寛永16年(1639)に没した。

35.ヒル塚古墳と内神社(八幡市)
 ヒル塚は府道長尾八幡線が国道1号線と交差する内里の西に位置する。一辺約45mの方墳。時期は5世紀前半。内神社は内里集落の西端に位置する。祭神は武内宿禰の弟の味師内(うましうち)宿禰。味師内宿禰は、隼人集団とも関係があり、隼人によって祀られたものとされる。

36.奈良御園神社(八幡市)
 上奈良の東端に位置する。朝廷の野菜を作る奈良園(『延喜式』)に関連する神社であろう。例祭に青物神輿を作って奉納する。南山城は、奈良時代以前から大根などの野菜の産地であった。

37.巨椋池と巨椋神社(宇治市)
 現在の宇治市・伏見区・久御山町にひろがっていた淡水湖。平均水深は0.9m、周囲16キロ。東岸に式内社巨椋神社がある。池の西に淀津、東に宇治津と岡屋津、北に前滝津がおかれ、畿内の水上交通の中枢をなした。慶長3年(1594)に豊臣秀吉が伏見築城に伴い大改修を経、明治中期頃から進められた干拓が昭和16年に完成、現在にいたる。

38.栗隈大溝(城陽市)
 「日本書紀」の仁徳と推古紀に登場する灌漑水路。現在の古川に比定される。大化改新以前は市域の北部から久御山にかけての一帯を栗隈県主を中心とした氏族が支配したと考えられており、栗隈大溝はその大開発の痕跡を示す可能性がある。

39.久津川古墳群(城陽市)
 平川の丘陵一帯に築かれた古墳群。古墳時代前期末から中期。芭蕉塚・青塚・丸塚など。久津川車塚古墳は全長156mの前方後円墳で群中最大規模。明治27年(1894)の調査で長持形石棺と多くの副葬品が出土した。

40.正道官衙遺跡(城陽市)
 寺田の北東で、城陽市東の段丘上に築かれた古墳時代から奈良時代の複合遺跡。なかでも奈良時代の掘立柱建物跡群は南が築地で限られ、区画内に大規模な建物をおく。規模・構造などから久世郡の郡衙跡と推定されている。

41.樺井月神社(城陽市)
 水主に所在する水主神社境内に鎮座。祭神は月読命。もと綴喜郡樺井(現在の京田辺市大住)にあったが、木津川の氾濫により江戸時代に移動。草創は不明。「古事記」の安康天皇条にみえ、木津川の重要な渡しであった樺井の渡の守護神と伝える。

42.平等院(宇治市)
 天台系単立寺院。源重信後家から藤原道長が買得した別荘(宇治殿)を頼通が(永承7年(1052)に明尊を開山として寺門派の寺に改め、翌年に阿弥陀堂(鳳凰堂)を落成。境内は国の史跡・名勝に指定され、定朝作の本尊阿弥陀如来像をはじめ鳳凰堂内部を飾る板絵著色壁扉画一六面など多数の国宝を有する。

43.岡屋津と宇治二子塚古墳(宇治市)
 古代から中世にかけて五ケ荘西部にあった河港。巨椋池西端の淀津と対置。宇治郡の大津として、近江の大津とあわせて東国への交通の要衝であった。また近接地に郡衙の所在も推定される。文禄3年(1594)の豊臣秀吉による槇島堤の築造で衰退。宇治二子塚古墳はこの岡屋津を見下ろす位置にある古墳時代後期の前方後円墳。全長約110m。

44.藤原氏の木幡墳墓群(一部が宇治陵)と浄妙寺跡(宇治市)
 木幡中央部の丘陵は藤原基経一門の埋葬地として定めた地で、寛弘2年(1005)には道長が木幡三昧堂(浄妙寺)を建立。周辺には11世紀後半に藤原師実の別業京極殿、13世紀初期には藤原基房の別業松殿があった。また和邇系古代氏族に関係すると思われる後期古墳が散在。

45.金色院跡と白山神社(宇治市)
 後冷泉天皇の皇女四条宮寛子(藤原頼道女)が康和4年(1101)に建立したと伝え、中世前半までは十六坊と呼ばれる多数の塔頭があり栄えた。金色院跡の所在する白川は宇治から宇治田原へ向かう道にあたるとも考えられ、名称は洛東白川にちなむと言われる。集落の形成も12世紀に遡り、金色院の鎮守社とされていた白山神社は久安2年(1146)の創建と伝えられる。

46.宇治川と宇治橋(放生院の宇治橋碑)
 古代の北陸道と中、近世の奈良街道が宇治川を渡る地点に位置する。「日本書紀」天武天皇元年条に記され、7世紀中葉の存在が知られるが、現在の宇治橋より上流にあった。寛政3年(1791)に橋畔の橋寺放生院の付近から発見された石碑(一部現存)には、大化2年(646)に道登が架けたと記されているが、年代を下げて考える説が有力である。

47.宇治神社と宇治上神社(宇治市)
 「延喜式」神名帳にみえる「宇治神社二座」に比定。宇治神社は宇治橋上流の宇治川右岸に所在。祭神は応神・仁徳と莵道稚郎子。莵道稚郎子像と伝える神像をもつ。宇治上神社は宇治橋東方の仏徳山の麓に座る。現存する日本最古の社殿といわれる。祭神は宇治神社と同じ。「山城国風土記」逸文によれば、莵道稚郎子の離宮桐原日桁宮の旧跡と伝える。また境内に巨石があり磐境信仰も関係。

48.三室戸寺(宇治市)
 明星山の北西麓山中にある本山修験宗。古くは天台宗に属し、創建は宝亀年間(8世紀終わり)または10世紀。康和元年(1099)頃に三井寺の隆明が中興。西国巡礼の信仰に含まれ、西国三十三所観音巡礼の10番札所。「みむろどいむべのあきた」の人名が竹取物語にでていて、三室戸は古くからの地名であろう。

49.淀城(京都市伏見区)
 「日本後紀」延暦23年(804)の桓武天皇の行幸記事に「与等」としてみられ、西日本から京へ運ばれる物資の中継地として重視された港(与等津)。納所(のうそ)地名は物資を保管する施設があったことに由来。平安時代末期には軍事上の要地としても知られ、永正元年(1509)の「細川両家記」に初めて「名城」として登場。豊臣秀吉は天正16年(1588)に修築するが、伏見城の建築を進める中で破却。

50.上津屋流れ橋(八幡市)
 八幡市の上津屋村と対岸の久御山町の佐山村を結ぶ木津川の渡。文化9年(1812)の記録によれば2艘の渡船があった。現在増水の際に橋脚と橋が分離する「流れ橋」にかわる。津または渡としての重要性は、集落の中央部にある石田神社の創建が社記によれば8世紀に遡ることや、治承4年(1180)の宇治合戦に源頼政が陣をおいたことなどでうかがうことができる。

参考:平凡社 1981『京都府の地名』(日本歴史地名大系26)ほか