網野善彦先生と最初にお会いしたのは、1990年2月に国立歴史民俗博物館でおこなわれた研究会の席だった。厳密に言うと、それより前、間近でお会いしたことが一度ある。同志社の在学中に、網野先生が森先生に招かれて大学で講演した時である。1980年代の初めだったと思う。しかし残念なことに当時はそんな森先生と網野先生のすごさを思い知るにはあまりに未熟だった。
歴博の研究会は、田中稔先生がリーダーで中世日本列島の東国と西国をテーマとしたもので、その数年前に太井遺跡、日置荘遺跡と連続して南河内の鋳造遺跡を調査していたことから、中世職能民の考古学からみた事例紹介のゲストスピーカーとして呼ばれたのである。しかしそのメンバーを聞いた私は、あの網野先生と河内鋳物師の話ができるということで頭が一杯になり、事例紹介にとどまらない、小難しい話を準備し、正装して緊張しながら例によって長い話をしてしまった。そして当然ながら勉強不足による厳しい指摘を受けた。その時、あのやわらかな口調で厳しい指摘を受けると、かなりきついことを知った。しかし学問のプロの世界を覗くことができた気がして、それはむしろ大きな励みになった。
その夜の歴博の研究棟でおこなわれた懇親会で何を話したか覚えていないが、翌日の研究会の席で上着の襟の乱れを直してくれたことは鮮明に覚えている。それから網野先生の疑問に応えるべく自分史にとって大きな転機となった網野研究が始まった。河内鋳物師関係にとどまらず、網野先生の思想形成に遡る荘園研究も読んだ。しかし読み進む中でも新しい著作を発表されるので少々まいった。そして歴博の48集の論文を書き終えた時には、もうすっかり網野史学のとりこになっていた。
その後、中世都市研究会や森先生の関係でお会いする機会が増え、名前も覚えていただいた。
最後にお会いしたのは2000年に山梨で行われた中世都市研究会での席だった。討論の打ち合わせで、たまたま石井進先生と網野先生に挟まれて座ることになった。このときの私のテーマは京都の鋳物職人だった。自分としては新しい研究法を提案したものの、網野先生の課題に応えられるような内容の話ができず、思わずあの歴博の日を思い出していた。文章化に際して考えを整理し、なんとか形にしたが、その後の中央公論の日本の中世の中でそれを評価していただいた。ちょっとだけほっとした。
始まりは河内鋳物師で、別れは京の鋳物師だったことになる。
日本史の見方について、とても深く多くのことを学び、現在ひとつの授業では、まさにその遺跡学的な展開を講義している。継承するつもりであり、継続させ発展させなければならないと考えているが、覚悟していたことではあるが、どうしようもない寂寥感と焦燥感におそわれている。