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拝復
Tさん。メールありがとうございます。お力になれるでしょうか。まず最初におことわりを。現在の「おやき」に限定すると、必ずしも意図にそぐわないことになるかもしれないので、現在の「おやき」に代表されるような、食べ物についてということで、考えてみました。(かたいことを言って申し訳ない。お役に立てないかも。ごめん)忘れそうなので、てっとり早くお答えします。

1、ということで、まずは「おやき」の定義について(おやきってなに?)

参考図書は
三田コト1999「戦前・戦後における郷土食おやきの変容と食生活」日本の食文化12雄山閣

以下はその要約

おやき、焼き餅の類いは、昭和30年以前の全国の山村で主食だった。山梨では昼がおやきで夜はほうとう。山村では米は生産量が少なく、平地では米は重要な換金作物。長野ではそば、麦、米の焼き餅。各種穀粉の利用。北信は生き残っている。
善光寺平では、小麦粉の皮。野菜の炒め煮、丸茄子に油みそ。カボチャや小豆の餡を中身にしてまんじゅうのようにまるめて蒸す。
昔風はそば粉を入れる。昭和58年に長野県教育委員会は、伝統食として、おやきを長野県選択無形民俗文化財。聞き取り調査によれば、お盆は焼く、山梨ではトウモロコシ粉の焼き餅(みそあん)をおやき(米かとうもろこしの粉で塩味の団子をつくり、油で焼く。砂糖醤油で食べる(1994『たべもの日本史』新人物往来社))、昭和19年の小川村では、ふだんは焼くだけ。ふかしたほうがやわらかくて上等なので、おやきか。
おやきのふるさとは、善光寺平西山の山間。米の生産量が低い。
昭和19年の小川村の調査では、中食と夕食にやきもち
小麦、そば、ひえなどえお粉にして、菜、漬物、大根、かぶ、茄子、などを適当に切って、みそで揉んで、一旦、煎り鍋で皮を焼いた後に、いろりで焼く。上等はむす。
野菜以外に、味噌だけや、上等は小豆
やきもちの粉は麺にならないような粉
うどんやそばはごちそう。
囲炉裏のすみにへっついをおいて、飯をたき、へっついに羽釜んをかけて蒸し物もした。
一般に朝食は麦飯にみそ汁又は、小麦又はそば粉のやきもち、昼は飯、夜は小麦粉のぶっこみ、やきもち
小麦粉を丸めて汁に入れたらおつめり
のばして切って入れたらぶちこみ
やきもちは、囲炉裏生活に合致

おやきの定義のまとめ
元来は焼いたものだった
材料は小麦かそばなどの米以外の粉、それを皮にしたまんじゅう
なかに入る餡は、小豆が砂糖か塩である以外は、味噌をベースにする。小豆のは極めて例外。具材は各種野菜。
元来は中部高地の各所でみられたが(山梨でも)、現在は北信がめだつ。
米の取れにくい山間部で、工夫された料理
 ということで、その特徴を分解すると「粉食」「小麦・蕎麦」「味噌」「野菜」「焼く」となる。しかしこれで限定したら話がすすまないので・・・

2、派生する話題
この要素を再構成してできあがる、別の料理を探すことで、話題をひろげてみましょう。
まずは分解して個々の歴史を探る
「粉食」と「小麦・蕎麦」
これはいわずもがなの、麺類

(1)まずは小麦の栽培
 小麦の栽培は弥生時代にさかのぼるそうであり、奈良時代には、米が不作だった時の備えの食物として、記録に登場。その後、中世も、米よりは少ないが栽培されていた。
 参考文献は、吉田美夫1998「日本における小麦の栽培史」『日本の食文化』3巻 雄山閣
 ではどのように食べられていたか。その代表が麺です。

(2)索麺について
市毛弘子1998「索麺の起源と用いられ方、および索麺から索麺への変遷過程」『日本の食文化』3巻 雄山閣
 記録によれば、奈良時代から麦縄、索餅の文字がみられ、「むぎなは」「むきなは」と呼ばれた。中世には「さくへい」というよみかたがされ、南北朝期から素麺または索麺が出現、「さうめん」
奈良・平安時代は、索麺は、小麦粉に米粉をまぜて塩をくわえてねったもの。
奈良・平安時代共に、乾燥させて縛ってつるされて売られた。それをゆでて、塩、酢味噌をあえて食べた。
 平安時代までは、貴重な高級食であり、中世には南北朝期に、中国から新たな技術が伝えられ、茶会の食物として寺院で多く使われた。
 
(3)饂飩について
 奈良時代に遣唐使などからもたらされた唐菓子の索餅(さくべい)(麦縄)をルーツと言われているが、1352年の記録にはウトムとあり、室町時代になって?飩(こんとん)から細長く変化したものとして普及したも言われているそうだ。
また平安時代には、小麦粉をこねて薄く延ばし、方形に切ったり、親指大のおおきさにまるめたものを薄くすりもんで、よく熟したマクワウリと一緒に煮込んだ「ほうとう」も好まれ、枕草子に載っている。
加藤有次1994「うどん」『たべもの日本史』新人物往来社

(4)蕎麦について
 花粉は縄文時代の遺跡からもみつかっているとされるが、奈良時代の記録に救荒食物として登場。石臼の普及によって、いわゆる「そば切り」として江戸初期に成立。文政年間に江戸に3000軒の蕎麦や。食べ方は普通の麺以外に、「そばがき」「おやき」などもある。
高瀬礼文1994「そば」『たべもの日本史』新人物往来社

(5)粉食について
 このような食品を作るためには、素材を粉にする工程が必要。その道具が、石臼である。石臼の起源は7世紀前半の曇徴の碾磑(てんがい)にさかのぼり、大宰府には8世紀以前とされる巨大な石臼がある(ただしこれは工業用?)。が、これらは極めてまれな例で、遺跡から普通に石臼がみつかるのは、室町時代になってから。
 したがって、一般に粉食が普及するのは、室町時代ということになる。
 これは、各種麺類が室町時代以降に普及することと符号する
 それ以前は、限られた人がつくった商品としての麺ではないか?

 ここまでで、「おやき」の特徴を粉食料理とすると、その源流は、さかのぼっても室町時代ということになる

(6)平安時代と中世の文献の食
 それじゃあ、古代に、おやきのようなものはないのかというと、「倭名類聚抄」に「餅?(べいだん)」というものがあって、加工調理品で、餅の中に、煮た野菜や卵をつつみ、四角に切ったモノらしいので、雰囲気は似ているかもしれない。
戸田秀典1999「平安時代の食物」『日本の食文化』2(雄山閣)

 しかし、基本的に中世の村での食の様子はかなしいものがあり、15世紀末における蓮如の記録には東北農民の食が描かれ、稗ばかり食べていたとされる。ただしこの内容は、蓮如の布教苦心談なのでわりびく必要もありそうです。
 また梶原氏を出自とし、東福寺2世となった無住は、「雑談集」の中で、「夏は麦飯粥なとにて命をつきはべり。愚老病体万事不階の中に、老子の言える禍いの中福にて、麦飯と粥を愛し侍る故、分の果報なり」と粥と麦飯を好んだことを強調しています。
原田信男1999「中世村落における食生活の様相」『日本の食文化』2(雄山閣)

 もっとも、古代・中世の記録は、限られた階層のものがほとんどで、しかも食文化を描いたものは、特殊な食事が多く、普通の食事がどのようなものであったのかはわかりにくい。また料理素材の記録は多いが、加工食の記録は少ない、加えて、加工食のばあいは特に、その言葉が具体的にどんな料理をさすのかもわからないものが多いようです。

 ところで、『おあん物語』によれば、300石とりの武士でも朝晩は雑炊で、飯は稀、米以外に大麦が多用され、全体をふくらますために、菜や野草が用いられていたという。また小麦は麺類、饅頭、羹にしていたそうである
渡辺正1999「邦訳日葡辞書を通してみた安土桃山時代の食文化」『日本の食文化』2(雄山閣)

 ちなみに江戸時代末期の伊那郡前沢村の記録があり、それによると、常の食事の夕食につみいりとおやきがとうじょうする。このうち「つみいり」は小麦粉をこね、箸で適当にちぎって汁の中に入れてにたもので、汁のベースは味噌で野菜を沢山入れる
 おやきは焼き餅で、小麦粉をこねて適当な大きさににぎり、囲炉裏のまわりで焼いて、大根おろしなどを付けて食べる。こねたものを鍋でゆでて、そこに小豆餡などを入れて、焼いて食べるのはごちそうとしています。
向山雅重1997「農村の食生活」『日本の食文化』10(雄山閣)

(7)味噌について
ダイズを主原料にした発酵調味料。起源は古代中国の調味料である醤やシ(し)と考えられている。日本には奈良時代までに伝来し、養老令に未醤とあるのが初見とされ,平安時代には味噌のもととされる発酵食品「未醤」が販売されている。室町時代には、代表的な食べ方である味噌汁も登場、江戸時代になると各地方で特有の味噌がつくられるようになった。
 これについては、これ以上のコメントはできないが、おやきの餡をみると和え物状の料理が多い。ので、その調理にはすり鉢が使われたかもしれない。味噌についてもセットになるのが擂鉢である。もしそうであれば、やはりすり鉢の普及は室町時代なのだが
鋤柄俊夫1999「擂鉢が語る食文化」『味噌』柴田書店

(8)焼く料理について
最後に料理法について、「おやき」の原型は焼き料理だというけれど、大きく日本列島をわけると、東日本が焼き料理で西日本が蒸し料理となる感じ。西日本は竈をつかって釜で湯を沸かして蒸籠で蒸した料理をした。東日本は囲炉裏を囲んで焼き料理をした。きりたんぽや五平餅もこの囲炉裏の焼き料理の範疇ではないかと思う。粥に代表される煮物料理は東西共通。
 そうなると「おやき」も典型的な東日本型の料理で、しかも味噌味というのも、西がダシ味なのと対照的かもしれないけど、このあたりは不確定
 また、小麦粉のこねたのを麺にせず、たくさんの野菜と味噌味で食べるという点でみれば、山梨の「ほうとう」は共通する要素があるかも、ただしこの料理は焼き物料理ではないので、その点の説明の工夫が必要。なおこの線でいけば、平安時代までさかのぼる。
 
A、野菜の餡を除いた焼き料理に注目すれば、東日本型食文化の凝縮したのが「おやき」かなあ
 縄文の遺跡から出たのがなにか知らないけど、蕎麦餅のようなものなのかなあ
 現在のおやきは、一般のおやきに比べてなかなか上等な料理品のよう
 工夫と改良が成功したのでしょう

B、小麦粉の捏ねたのの野菜煮込みとすれば、救荒食品的な見方より、平安時代の貴族の食文化にさかのぼる、高級メニューにつながる?ほうとうや煮込み饂飩のハンバーガー?サンドイッチ版?

まとまらない話になってしまいましたが、こんなところでいかがでしょうか
失礼いたしました
取り急ぎ
敬具