1 坪井良平 1984 ・歴史考古学の研究・ ビジネス教育出版社・1989 ・梵鐘と考古学・ ビジネス教育出版社・1991 ・梵鐘の研究・ ビジネス教育出版社・1970 ・日本の梵鐘・ 角川書店
2 網野善彦 1972 「真継文書にみえる平安末〜南北朝の文書について」・名古屋大学文学部研究論集、史学・・1973 「真継文書にみえる室町期の文書」・名古屋大学文学部研究論集、史学・・1974 「真継文書にみえる戦国朝の文書(一)」・名古屋大学文学部研究論集、史学・・1975 「中世中期における鋳物師の存在形態」・名古屋大学文学部研究論集、史学・・1976 「中世都市論」・講座 日本歴史・7 岩波書店・1982 「中世初期における鋳物師の存在形態」・名古屋大学日本史論集(上)・吉川弘文館・1983 「中世の鉄器生産と流通」・講座・日本技術の社会史・第5巻 株式会社日本評論社・1986 「河内日置荘と中世鋳物師」・河内鋳物師の歴史と技術・ 美原町・1986 「中世の旅人たち」・週刊朝日百科 日本の歴史・6 朝日新聞社
3 河音能平 1975 「蔵人所の全国鋳物師支配の成立過程」・美原の歴史・1号 美原町教育委員会・1977 「鎌倉前期河内鋳物師の一風貌」・美原の歴史・3号 美原町教育委員会
4 石野 亨 1977 ・鋳造 技術の源流と歴史・ 産業技術センター・1986 「わが国鋳造技術の史的変遷」・河内鋳物師の歴史と技術・ 美原町
5 五十川伸矢 1982 「京都大学教養部構内AP22区の梵鐘鋳造遺構」・京都府埋蔵文化財情報・第5号・1988 「鴨東白河の鋳造工房−京都大学構内の鋳造に関する遺跡−」・京都大学構内遺跡調査研究年報 昭和60年度・・1989 「遺跡から見た古代・中世の梵鐘鋳造技術」・河内鋳物師の技術と歴史・美原町・1991 「中世白河の鋳造工房」・京都大学埋蔵文化財調査報告・W
6 石野 亨 1977 ・鋳造 技術の源流と歴史・ 産業技術センター。「烏丸神社址附鍋子丸旧蹟」 1927 ・大阪府史跡名勝天然記念物・第1冊
7 尾上 実 1984 ・観音寺遺跡第一次発掘調査概要・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。中村淳磯ほか 1986 ・松原市 観音寺遺跡 第2次発掘調査概要・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター
8 山本 彰ほか 1986 ・真福寺遺跡・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。山本 彰 1990 「真福寺遺跡の梵鐘鋳造遺構について」・梵鐘の音は時を越えて・ 美原町。福岡澄男 1985 「河内鋳物師の里」・図説 発掘が語る日本史・第四巻(近畿編)株式会社 新人物往来社。鋳型と製品の推定については五十川伸矢氏のご教示を得た。
9 市本芳三ほか 1987 ・太井遺跡(その1)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。鋤柄俊夫ほか 1987 ・太井遺跡(その2)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。松山 聡ほか 1987 ・太井遺跡(その3)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。鋤柄俊夫ほか 1990 ・太井遺跡(その4)・日置荘遺跡(その1−2)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。鋤柄俊夫 1990 「太井遺跡の鋳造遺構について」・梵鐘の音は時を超えて・ 美原町。美原町教育委員会の調査成果については包丁道明・泉谷博幸氏のご教示・ご協力をいただいた。
10 金光正裕ほか 1988 ・日置荘遺跡(その1)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。鋤柄俊夫ほか 1988 ・日置荘遺跡(その2)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。江浦 洋ほか 1988 ・日置荘遺跡(その3)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。入江正則 1988 ・日置荘遺跡(その4)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。小野久隆ほか 1989 ・日置荘遺跡(その5)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。入江正則 1990 ・日置荘遺跡(その2−2・その6)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。入江正則 1991 ・日置荘遺跡(その2−3・6−2)・ 大阪府教育委員会・(財) 大阪文化財センター。續 伸一郎 1991 ・日置荘遺跡発掘調査概要報告−HKSー9地点・堺市日置荘原寺町215ー1−・(堺市文化財概要報告第21冊)
11 橋本久和 1974 「中世村落の考古学的研究」・大阪文化誌・1巻2号
12 原口正三 1977 「古代・中世の集落」・考古学研究・92
13 奥野義雄 1977 「中世集落と住居形態の前提をめぐって」・大阪文化誌・2巻3号
14 石神 怡 1979 「各地の古代末から中世に至る遺跡について」・和気・和気遺跡調査会
15 坪之内徹 1981 「中世における墳墓と葬制(5)」・摂河泉文化資料・6−5
16 中井 均 1987 「中世城館の発生と展開」・物質文化・48。畿内以外では橋口定志 1988 「中世方形館を巡る諸問題」・歴史評論・454。水藤 真 1989 「村や町を囲むこと」・国立歴史民俗博物館研究報告・第19集。千田嘉博 1991 「村の城館をめぐる五つのモデル」・年報中世史研究・第16号など。
17 広瀬和雄 1986 「中世への胎動」・岩波講座 日本考古学・6
18 佐久間貴士 1985 「中世の開発と集落」・歴史科学・99・100合併号。1985「畿内の中世村落と屋敷地」・ヒストリア・第109号。また畿内以外では坂井秀弥氏が広い視点にたった考察を進めている(1985「頚城平野古代・中世開発史の一考察」・新潟史学・第18号)。
19 橋本久和 1981 「大阪府における中国陶磁器の出土状況」・貿易陶磁研究・bPなど。また宇野隆夫は土器類総体について詳細な分析から遺跡の個別性を提示している(1988「越中の国府・荘家・村落」・高井悌三郎先生喜寿記念論集 歴史と考古学・)。
20 浜谷正人 1988 ・日本村落の社会地理・のなかで村落の統合などによる「ムラの空間類型的変化」が説明されている。
21 広瀬和雄 1988 「中世村落の形成と展開」・物質文化・50
22 島田次郎 1963 「荘園村落の展開」・岩波講座 日本歴史・6
23 関口恒雄 1975 「中世前期の民衆と村落」・岩波講座 日本歴史・5
24 島田次郎ほか 1961 「中世村落をめぐって−大会討議−」・地方史研究・49
25 小山靖憲 1987 「日本中世村落史の課題と方法」・中世村落と荘園絵図・ 東京大学出版会
26 原田信男 1988 「中世の村落景観」・村落景観の史的研究・八木書店
27 木村 礎 1988 「展望」・村落景観の史的研究・八木書店
28 吉岡康暢編 1983 ・東大寺領横江庄遺跡・ 松任市教育委員会・石川考古学研究会
29 図15は土地条件図による表記であるが、日下雅義氏によれば(1980 「「依羅池」付近の微地形と古代における池溝の開削」・歴史時代の地形環境・古今書院)、段丘下位面が中位段丘、段丘低位面が低位段丘と沖積段丘、谷底平野と氾濫平野の分離など、記述に違いがみられる。小論では足利健亮・桑原公徳 1985 「2 松原市の地形」・松原市史・第1巻に従い、本文では日下氏の表現を使用している。服部昌之 1976 「美原町周辺の地形」・美原の歴史・第2号 美原町教育委員会
30 森 浩一 1978 「生産の発展とその技術」・大阪府史・第1巻
31 日下雅義 1980 「狭山池の変遷と西除・東除両河川の性格」・歴史時代の地形環境・古今書院 東除川は段丘を横断するかたちでつくられており、近世以降の運河と考えられる。さらに、水面が地表より低い面にあたるため、中・上流の地域では、物理的にも用水とすることが不可能である。
32 前掲書 ・松原市史・第1巻
33 金田章裕 1985 ・条里と村落の歴史地理学的研究・ 大明堂
  金田章裕 1985 「中世の村落」・村落と開発 講座考古地理学・第4巻 学生社
34 金田章裕 1971 「奈良・平安期の村落形態について」・史林・第54巻第3号
  金田章裕 1978 「平安期の大和盆地における条里地割内部の土地利用」・史林・第61巻第3号
35 金田章裕 1985 「集村化現象の進展」・条里と村落の歴史地理学的研究・大明堂。板倉勝高 1952 「尾張国富田庄を例とせる日本庄園の村落構造」・東北地理・5−1 東北地理学会。島田次郎は榎坂郷および垂水荘の集落の立地として神崎川の自然堤防上または扇状地の扇側部を(「中世村落の耕地と集落」・地方史研究・49、1961)、高島緑雄は香取社領の村落を台地の縁辺を(「中世における香取社領の村落」・地方史研究・49、1961)、吉田敏弘は薩摩国入来院を対象に中世は台地から台地縁辺部を、近世は段丘平野部を(「中世村落の構造とその変容過程」・史林・第66巻第3号1983)集落の立地としている。ただし金田氏は同時に大和盆地などで散在する微高地がそのまま村落の立地に対応しない場合がみられることも述べている。
36 高重 進 1954 「弘福寺領山田郡田図の集落とその比定」・史学研究・55 広島史学研究会など
37 寶月圭吾 1950 ・中世潅漑史の研究・ 目黒書店。高重 進 1972 「古代中世の潅漑と空海の満濃池修築」・地理科学の諸問題・船越謙策教授退官記念事業会。上島 有 1970 「庄園村落と潅漑用水」・京郊庄園村落の研究・ 塙書房
38 日下雅義 前掲書註29
39 弘仁12年(821)の太政官符によれば、交野・丹比両郡は土地が高燥で干害を避けることができず、易田とされ、普通の二倍の田が与えられている(類聚三代格)。
40 ただし泉北丘陵北東部の縁辺地域(堺市日置荘・登美丘、大阪狭山市茱萸木)では井戸水による潅漑が多くみられた。これが用水による村落共同体規制を離脱する1型式である指摘もある(福島雅蔵 1967 「潅漑水利」・狭山町史・第1巻)。
41 水野章二 1985 「中世村落と領域構成」・日本史研究・271
42 福島雅蔵 1967 「狭山池」・狭山町史・第1巻
43 福島 1967 前掲書註39
44 堺市役所 1971 ・堺市史・続編第1巻より第1編第3章「律令国家の形成と堺」、第3編第2章「近世村落の成立」
45 山口之夫・森 杉夫 1985 ・松原市史・第1巻より「近世編 第3章 2 水利と潅漑」。なお美原町の池については嶋田 曉 1976 「美原町の川と道」・美原の歴史・第2号に述べられている。
46 金田 1978 前掲書註34
47 前掲書註45より「自然地理編 第1章 松原市の位置と地形環境」
48 日下 前掲書註29
49 この部分の溜池は泉北丘陵の末端に築かれているものであるが、同様な景観は「日根野村絵図」でもみられる。(水田義一 1972 「台地上に位置する庄園村落の歴史地理学的考察」・史林・第55巻第2号など)
50 山本 彰ほか 1986 ・真福寺遺跡・ 大阪府教育委員会・(財)大阪文化財センター、樋口吉文 1989 ・石原町遺跡発掘調査報告・(堺市文化財調査報告第40集)など
51 また親池と子池(うつし池)の引水関係からみれば、溜池築造の契機のひとつを、親池の改修に求めることができる。この地域全体の親池とも言える狭山池の大規模改修は、天平宝字6年(762)、建仁2年(1202)、慶長13年(1608)が知られており、谷池と皿池の関係をこれらの改修に対応させて考えることもできようか。
52 金田章裕 1978 前掲書註34
53 丹南の場合、条里地割の分布が狭山池とその水路による潅漑範囲を南の境界としている点が指摘されている。(日下1980 前掲書註29)
54 服部昌之 1990 「第2章第3節 条里と交通路」・大阪府史・第2巻
55 直木孝次郎 1985 「古代編第2章 律令制下の丹比地方」・松原市史・第1巻
56 日置荘周辺など(前掲書註44)
57 日下 1980によれば、17世紀中頃に西除川と東除川との間に3本、西除川左岸に2本の流路があったとされる。なお、図18の水路は前掲書註42を基にしている。
58 服部昌之 1975 「美原町の字図」・美原の歴史・第1号 美原町教育委員会。なお服部英雄氏は耕作地地名による開発の復原をしているが(1983 「小地名による中世の村の復原」・歴史公論・86 雄山閣)、当該地域ではその小字名の成立が近世である場合も含まれると考えられるため、新出ではなく元来あったはずの「屋敷」名を採用した。
59 末永雅雄・森 浩一 1953 ・河内黒姫山古墳の研究・(大阪府文化財調査報告書第1輯)大阪府教育委員会
60 両道以外に大和と和泉を結ぶ道として、「茅渟道」も丹南を通過している。直木孝次郎 1978 「茅渟の道について」・美原の歴史・第3号
61 直木孝次郎 1985 「古代編第1章 律令制以前の丹比地方」・松原市史・第1巻
62 直木孝次郎 1976 「丹比連について」・美原の歴史・第2号。吉田 晶 1983 「古墳と豪族」・古代の地方史・3 朝倉書店ほか
63 前掲書註55
64 地名辞典
65 式内社と廃寺は北部で阿麻美許曾神社・酒屋神社・田坐神社、東部で大津神社・野中寺、中部で丹比神社・櫟本神社・黒山廃寺・丹比廃寺、南部で狭山堤神社・狭山神社・菅生神社・東野廃寺などが知られている。さらに「天平13年記」には石原布施屋が設けられたとされ、「続日本後紀」承和8年(841)閏9月の条には松原市天美我堂または北新町付近に倉8宇・邑久宇からなる駅家が記載されている(地名辞典)。
66 地名辞典。丹比郡が3分割される10世紀後半から11世紀前半は、丹南鋳物師が記録にあらわれ始める時期であり、遺跡・遺物の面からも重要な変革期である(拙稿 1988 「畿内からみた古代末から中世の土器−模倣系土器生産の展開−」・中近世土器の基礎研究・W・広瀬和雄 前掲書註17)。その意味で村落の領域と関わる郷および郡の再編と範囲は特に注意が必要であろう。
67 羽曳野市の説がある。地名辞典
68 地名辞典
69 黒山郷自体の領域の広さも指摘されている。水野正好 1978 「河州丹南八上両郡境長和寺小考」・美原の歴史・第3号
70 地名辞典
71 清水三男 1942 「荘園と中世村落の関係」・日本中世の村落・ 日本評論社
72 この地域全体の村落間結合については、近代村落のネットワークからの類推を考えている。おおむね村から出る道の数と方向により、東西幹線路をつなぐ村と南北道を中心とする村およびそれらの枝村の構造がうかがわれるであろう。例えば松原村の場合、新堂が本郷で上田・岡は枝郷であり、14世紀に上田・岡の集落があったか不明であるとされる(地名辞典)。
73 ここではそれらの集落が内部構造として、集村化を進めていたかどうかについての評価は留保する。
74 係数のつくりかたには様々な考え方があるが、ここでは最も普遍的に検出されるピット(柱穴)を基準とした。相対的で実験的なものとして理解されたい。包含層(1ポイント)、ピット(2)、土坑(2)、溝(2から24)、建物(24)、井戸(2から12)。建物は3×4間と2×3間の柱穴数の平均にピットの2ポイントを乗じた。井戸と溝は集落に伴う場合と、耕作地の場合で大きく異なる。前者の場合は1組の建物群と同等の価値をもつが、後者の場合は集落に対して意味的な度合は低い。それぞれ各調査成果を検討してポイントを付与したが、個別性の強いものとなった。
75 方眼による分析とその問題については、奥野隆史 1977 ・計量地理学の基礎・ 大明堂。その実際については藤本利治 1989 「中世城館分析にみる地域性」・歴史時代の集落と交通路・ 地人書房によっている。
76 古代を考える会 1976 ・平尾遺跡の検討・
77 この視点は矢田俊文氏の考察に負うところも多い(1990「中世後期越後国の集落に関する二つの課題」・かみくひむし・第80号かみくひむしの会・1991「中世越後における集落の移動に関する一考察」・新潟史学・第26号)。
78 金田章裕 1985 「条里プラン」・条里と村落の歴史地理学的研究・大明堂 
79 ただし、当地域の条里呼称が不明な点とあわせて、これらの領域が里と一致しない点で、本来の条里村落に対して2次的な位置にある可能性も否定できない。
80 遺跡文献20・21
81 山中敏史 1984 「遺跡からみた郡衙の構造」・日本古代の都城と国家・塙書房
82 高重 進 1975 「中世的村の形成」・古代・中世の耕地と村落・ 大明堂
83 ただし真福寺遺跡ではこの時期と推定される建物においても散居的な景観を示すものがある。これが小村を構成するか疎塊村の縁辺部となるか問題であるが、全体の趨勢は後者の可能性を示していると言える。
84 渡辺澄夫氏(1970「環濠集落の形成と郷村制との関係」・増訂畿内庄園の基礎構造・下 吉川弘文館)をはじめとして、中世村落のほとんどの景観研究が集村化の時期とメカニズムの説明をひとつの大きな課題としていることは言うまでもない。その意味において小論でも、近世のコンパクトな集村形態と中世の集落遺跡にみられる状況との間の問題に関心をもち続けてきた。しかし、各所で使われている用語としての一元的な「集村」に対し、その形態は環濠の有無からして多様であり、その成因についても地域と時代を反映して多岐におよぶことが考えられる。
 したがって中世村落個々の個別性を重視する小論においては、「集村」は村落の移動バリエーションとしてとらえることとしたつもりである。重要な点は「集村」のメカニズム、あるいは「集村」をする必要が無かった場合のそのぞれの環境の説明である。
85 石尾和仁氏はこの形態を、集村化を遂げた村落形態としている(1991「中世村落の変容と集溝屋敷地」・徳島県埋蔵文化財センター年報・Vol.2(財)徳島県埋蔵文化財センター)。
86 もちろん近年の景観復原的研究に対し十分にその成果をとりいれることができたわけではない(真野和夫 1985 「田染荘の調査」・考古学ジャーナル・241などの豊後国田染荘に関わるもの。高松市教育委員会による弘福寺領讃岐国山田郡田図比定地域の一連の調査(1988〜)。田中 稔ほか 1990 「中世荘園遺構の調査ならびに記録保存法−備後国太田荘−」・国立歴史民俗博物館研究報告・第28集。竹本豊重 1991 「地頭と中世村落−備中国新見荘−」・中世の村落と現代・吉川弘文館など)。学際的な環境の中で批判的に発展させることが課題とされる。
87 坪井良平 1983 「梵鐘の鋳造址」・佛教藝術・148号
88 杉山 洋 1983 「寺院付属の金属関係工房」・佛教藝術・148号
89 鋳造遺跡研究会 1991 「日本歴史時代鋳造関係資料」・鋳造遺跡研究会資料・
90 林 純 1988 「近江における金属の生産と流通」・近江の鋳物師・2 滋賀県教育委員会。同氏は時代により官営・有力氏族・中世鋳物師・戦国領主による支配を考えている。また五十川伸矢氏は炉壁と滓の量から、一時的か継続的かの視点で鋳造遺跡の質的分類を試みている(1991 「中世白河の鋳造工房」・京都大学埋蔵文化財調査報告・W)。
91 松村恵司ほか 1989 ・平城京右京八条一坊十三・十四坪発掘調査報告・(奈良国立文化財研究所学報 第46冊)。杉山 洋 1990 「奈良時代の金属生産」・佛教藝術・190号。
92 中谷雅治 1980 「恭仁宮跡」・埋蔵文化財発掘調査概報・第1分冊 京都府教育委員会
93 横川好富ほか 1984 ・関越自動車道関係埋蔵文化財発掘調査報告]W 台耕地(U)・(埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第33集)
94 石松好雄ほか 1980 「第65-2次調査」・大宰府史跡 昭和54年度発掘調査概報・ 九州歴史資料館
95 続伸一郎 1991 「日置荘遺跡発掘調査概要報告」・堺市文化財調査概要報告・第21冊96 吉川義彦ほか 1982 ・平安京左京八条三坊・(京都市埋蔵文化財研究所調査報告 第6冊)
97 笠井敏光ほか 1987 「古市遺跡(86-1)」・古市遺跡群・[(羽曳野市埋蔵文化財調査報告書14)
98 石橋正嗣ほか 1979 ・軽野正境遺跡発掘調査報告書・ 秦荘町教育委員会
99 續 伸一郎 1990 「堺環濠都市遺跡(SKT153地点)発掘調査報告」・堺市文化財調査報告・第51集 堺市教育委員会
100 嶋谷和彦 1990 「北花田口遺跡(KHG2地点)発掘調査報告」・堺市文化財調査概要報告・第5冊 堺市教育委員会
101 山本信夫・狭川真一 1984 「鉾ノ浦遺跡梵鐘鋳造遺構発掘調査速報」・古代研究・27 (財)元興寺文化財研究所。山本信夫・狭川真一 1987 「鉾ノ浦遺跡」・佛教藝術・174号。
102 (財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団 1990 ・金井遺跡B地区現地説明会資料・ 。(財)埼玉県埋蔵文化財調査事業団 1990 ・住宅・都市整備公団坂戸入西地区土地区画整理事業関連埋蔵文化財発掘調査現地資料[足洗遺跡][金井遺跡B区]・。赤熊浩一 1991 「埼玉県金井遺跡B区の調査」・鋳造遺跡研究会資料・
103 平井寿一ほか 1990 「中村遺跡」・埋蔵文化財発掘調査 1989年度 年報・ (財)栗東町文化体育振興事業団
104 前掲書註101
105 また土器工人との関連も考えられるかもしれない。なお台耕地遺跡(前掲書註93)は東日本におけるT期の例であるが、その末期段階でU期の特徴があらわれることを、同書中でも考察している。
106 ただしそのメカニズム単純ではなく、現象面としては、古代寺院の付属工房として「瓦窯や溶解炉などの生産施設が、一つの工房としてのまとまりを持っていたと推定」できる観世音寺の例(杉山 前掲書註88)と鎌倉初期において「杣工、製鉄、作陶は同一衆であろうと考えられる」北沢遺跡の例が対比される(川上貞雄 1992 ・北沢遺跡群・(豊浦町文化財調査報告5)豊浦町教育委員会)。
107 本項の技術的な面は、酒井良太郎・柴田孝夫 1955 ・新制 鋳造作業法・オーム社、木下禾大 1970 ・鋳造工学概論・日刊工業新聞社、堤 信久ほか 1970 ・鋳造工場設備・(鋳造技術講座14)日刊工業新聞社、を参考にした。
108 朝倉秋冨 1986 「青銅製品 付その鋳造関係」・倉吉の鋳物師・倉吉市教育委員会
109 五十川 1991 前掲書註90
110 山本信夫 1990 「太宰府を中心とした鋳物生産遺構について」・梵鐘の音は時を超えて・美原町
111 杉山 1990 前掲書註91
112 鋳型砂に求められる条件は、耐熱性、保温性、弾性、強度、成型性、通気性、復用性にあり、代表的なものは天然に粘土分を多く含んだ山砂、石英分の高い天然珪素などであり、石英の小粒子とカオリン系粘土質を混合させたものなども使用できるそうである。ちなみに羽曳野丘陵のうち狭山池北東部は鋳型土の有名な産地であり(末永雅雄 1967 「狭山の鋳物師」・狭山町史・第1巻)、その西方が陶邑遺跡群にあたる。
113 板倉勝高 1970 「真継鋳物師の分布と残存形態」・歴史地理紀要・12
114 門脇尚子 1986 「鋳物師と地域社会とのかかわり」・倉吉の鋳物師・倉吉市教育委員会
115 近藤雅樹 1988 「三俣の鳴り物作り 鋳造作業とその空間」・近江の鋳物師・2 滋賀県教育委員会。
116 このうち北群の1棟は5間1面と考えられる。
117 伊藤鄭爾 1958 ・中世住居史・
118 また板倉勝高氏は絵図に描かれた住居を4類に分け、各々その数を示している。絵図に対する史料批判を考慮せずにみると、その中で最小の住居の数は富田荘・東郷荘・足守荘で80数%を示す(1952 「尾張国富田庄を例とせる日本庄園の村落構造」・東北地理・5−1)。また黒田日出夫(1989 「荘園絵図の史科学」・荘園の成立と領有・(講座 日本荘園史1)吉川弘文館)によると、「越後国奥山荘波月条付近傍絵図」の建物は領主と一般の2タイプに描かれており、その比率は約1:9である。また浅香年木氏は、備中国新見荘において、荘・郷内居住の工人が「屋敷」を所有し、また「屋敷」呼称が上層住人に限られている例を述べている(1980 「中世の技術と手工業者の組織(2 荘・郷居住手工業者と給免田)」・岩波講座 日本歴史6・)
119 宮川 満 1979 「地頭とよび土豪層の動向と悪党」・大阪府史・第3巻。河音能平 1984 「畿内在地領主の長者職について」・中世封建社会の首都と農村・ 東京大学出版会。
120 その意味で神南備の種松の屋敷(岩波書店 1988 「宇津保物語1 吹上」・日本古典文学大系・10)についても類似した規模で考えられないであろうか。
121 前掲書註21
122 仲川 靖 1988 「近江八幡市久郷屋敷跡の掘立柱建物群について」・滋賀考古学論叢・第4集。葛野泰樹 1990 「近江の中世集落について」・日本歴史・10月号
123 坂井秀弥 1990 「出雲崎町寺前中世遺跡の調査」・新潟県考古学会第2回大会研究発表会 発表要旨・ 。12世紀後半〜13世紀代を中心とする在地の領主の屋敷。このうち13世紀前半までの段階で大量の炉壁・スラグ・羽口・鋳型などを伴う。また、後の時期で大和型と推定される瓦器碗が出土している。(坂井秀弥氏のご教示による)
124 永原慶二 1985 「中世の社会構成と封建制」・講座 日本歴史・4 東京大学出版会。上島 有 1970 「庄民の構成」・京郊庄園村落の研究・塙書房。黒田俊雄 1962 「鎌倉時代の荘園の勤農と農民層の構成(上)」・歴史学研究・261・1962 「鎌倉時代の荘園の勤農と農民層の構成(下)」・歴史学研究・262
125 小山靖憲 1987 「初期中世村落の構造と役割」・中世村落と荘園絵図・東京大学出版会
126 網野 1982 前掲書註2。渡辺澄夫 1970 「結論 畿内庄園の基礎構造」・増訂 畿内庄園の基礎構造・下 吉川弘文館。
127 網野 1982 前掲書註2
128 なおこの鋳物師の階層的組織については、網野善彦氏が大河直躬氏の(・番匠 ものと人間の文化史・ 1971 法制大学出版局)見解を引用し、それが日常の身分的な階層ではなかったあり方を指摘している(網野 1982 前掲書註2)。また工人の階層と作業組織に関して、直接比較はできないが、石山寺造営時の鏡4面の製作に10人、政所の鋳物所で5人(杉山 1990 前掲書註91)、熊本市大慈寺鐘の銘文によれば大工大春日国正と小工18人、高野山文書の「大湯屋釜修造用途註文」によれば惣大工丹治国高と多々羅座別に列大工10人の名前が記されている(坪井良平 1970 前掲書註1)。
129 前掲書註113
130 広瀬和雄氏は(前掲書註21)さらに小規模な建物の階層も仮定しており(20u程度)、それを下人クラスとすれば、この住居はいわゆる「小百姓身分」にあたることになる(河音能平 1984 「丹波国田能庄の百姓とその「縁共」について」・中世封建社会の首都と農村・ 東京大学出版会)。
131 赤羽一郎 1984 ・常滑焼・ニューサイエンス社
132 拙稿 1985 「中世信濃の東海系移入雑器」・考古学と移住・移動・(同志社大学考古学シリーズU
133 田口昭二 1983 「美濃における白瓷と山茶椀」・美濃陶磁歴史館報・U土岐市
134 藤沢良祐 1984 「”古瀬戸”概説」・美濃陶磁歴史館報・V土岐市
135 吉岡康暢 1987 「中世陶器の生産経営形態」・国立歴史民俗博物館研究報告・第12集・1989 「北東日本海域における中世陶磁の流通」・国立歴史民俗博物館研究報告・第19集ほか
136 森 浩一ほか 1956 「大阪府高石町伽羅端遺跡調査報告」・古代学研究・15・16号
137 佐久間貴士ほか 1984 「菱木下遺跡」・府道松原泉大津線関連遺跡発掘調査報告書・T (財)大阪文化財センター
138 藤沢一夫 1954 「河内萩原寺考」・日置荘町誌・
139 前章で整理した南河内の遺跡にあわせて和泉地域の主要な中世前期遺跡としては平井遺跡・箕土路遺跡・山直中遺跡・和気遺跡などがあげられるが、これらの資料は殆ど見ることが無い。
140 日本貿易陶磁研究会による1985・日本貿易陶磁文献目録・Tを資料として計測した。
141 1とあわせて渡部明夫氏のご教示による。渡部明夫 1980 「讃岐国の須恵器生産について」・鏡山猛先生古希記念 古文化論攷・。渡部明夫・田村久雄・町川義晃 1980 「綾南町陶窯跡群採集の須恵器」・香川史学・第9号
142 鈴木康之氏のご教示による。また伊藤 晃氏・上西節雄氏・荻野繁春氏にもご教示いただいた。
143 福岡県早良区田村遺跡出土の鉢とあわせて、吉岡康暢氏のご教示による。福山市教育委員会 1983 「鎌山遺跡」・福山市文化財年報(昭和57年度)・19。他に甕胴部片であるが、外面に平行条線叩き、内面に刷毛目を残す製品も見られ、やはり瀬戸内東部産と考えられる。
144 吉岡康暢 1985 「経外容器からみた初期中世陶器の地域相」・紀要・第14号 石川県立郷土資料館
145 前掲書註138
146 坪井良平 1973 前掲書註1
147 山本・狭川 前掲書註101 
148 豊田 武 1935 「大和の諸座續篇(中)」・歴史地理・第66卷2號・1936 「中世の鋳物業(上)」・歴史地理・第67巻 第1号日本歴史地理学会・1936 「中世の鋳物業(下)」・歴史地理・第67巻 第2号日本歴史地理学会・1944 ・中世日本商業史の研究・岩波書店・1985 「中世手工業の性格」「金属工業」・産業史1 体系日本史叢書10 第2版・山川出版社。ほかに田中久夫 1988 「河内国丹南郡狭山郷日置庄の鋳物師と鉄の鍋」・橿原考古学研究所論集・第十 吉川弘文館。
149 前掲書註2・3
150 網野氏は両者の関係について、それらが重なりあう組織か、別個の組織かの明確な判断は保留し、多少とも性格を異にする別々の集団と評価している。(網野1982)
151 全ての潅漑条件が整った近世河内国一国村高控帳(正保郷帳の写しとみられる)によれば(地名辞典)、日置荘3村の1平方qあたりの単位収量は810〜1183石となり、丹南できわめて高い水準にある(表参照)。
152 溜池と異なり西除川からの直接取水は、潅漑条件に関して古代から近世を通じて変化がみられないものと推測される。丈六・高松・原寺・北の各村は「狭山池常水掛リ之御田地」と称される西除筋の第1の水元村であり、特権的な性格をもっていたとされるが、その状況は中世を遡る可能性があろう。ちなみにこれらに次ぐの村は西村・余部・大饗・小寺・松原・瓜破と北上し、野遠はその後の12位となっている。一方東除筋の分水順位は、1612年の段階で田井(1位)、黒山(6)、多治井(7)、大保(8)、新福寺(9)となっている。(福島雅蔵 1984 「近世狭山池の管理と分水」・狭山町立郷土資料館 狭山シリーズ14・)。
153 ここで言う4類型と永原慶二氏による3類型(「中世村落の構造と領主制」・中世社会構造の研究・)との関係は未だ十分検討されていない。また渡辺澄夫氏による均等名型の構造との対比も今後の課題である。
154 その意味でこの村落においては集村化のスピードが遅い可能性も考えられる。
155 その範囲に位置する八下遺跡からは獣脚鋳型と考えられる資料が出土している。獣脚の盛行期は奈良から平安と言われており(内藤政恒 1937 「我国発見の獣客に就いて」・考古学雑誌・第27巻第1号)、寺社などの注文による鋳造に関わった可能性がうかがわれる。
156 入間田宣夫 1980 「平安時代の村落と民衆の運動」・岩波講座 日本歴史4・
157 前掲書註5
158 越田賢一郎 1984 「北海道の鉄鍋について」・物質文化・42など
159 菅原正明 1989 「西日本における瓦器生産の展開」・国立歴史民俗博物館研究報告・第19集
160 浅野晴樹 1991 「東国における中世在地土器について」・国立歴史民俗博物館研究報告・第31集
161 本宿・郷土遺跡では鉄鍋鋳型が出土しているものの、同時に大量の土鍋も確認されており、鉄鍋に特殊な機能を与えるか、供給先を限定するかの考え方も示されている(井上 太ほか 1981 ・本宿・郷土遺跡発掘調査報告書・富岡市教育委員会)。またこれと対照的なの考え方もある。
162 拙稿 1992 「四国の煮炊具レポート」・中世土器研究・第64号
163 豊田 武 1933 「大山崎油神人の活動」・歴史地理・第62巻第5号。小野晃嗣 1989 「油商人としての大山崎神人」・日本中世商業史の研究・法政大学出版局
164 坪井1970 前掲書註1