1 楢崎彰一 「古代・中世における生産上の諸間題」『日本の考古学』Y 一九六七
2 宮沢恒之他 『長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書ー下伊那郡阿智村斜坑広場その2ー』長野県教育委員会 一九七四
3 楢崎彰一 「資器の道(上)」『名古星大学文学部二十周年記念論集』 一九六九
4 藤沢良祐 「長野県出土の古瀬戸について」『信濃』31ー11 一九七九
5 赤羽一郎 『常滑焼』ニューサイエンス社 一九八四
       「やきものと松本平」(講演会資料)松本市教育委員会 一九八四
6 一志茂樹 「城館址の形態とその蹈史的考察」『信濃』9ー10 一九五七
7 大沢和夫 「南信地方の中世遺跡の発掘」『歴史手帖』5ー4 一九七七
8 川上元他 『塩田城跡発掘調査報告(第一次〜第三次)』(上田市教育委員会) 一九七六〜一九七八
9 山田瑞穂 「長野県における中世山城調査の現状と問題点」『中部高地の考古学』長野県考古学会 一九七八
10 佐藤甦信 「下伊那地方における中世遺構と堂址について」『中部高地の考古学』長野県考古学会 一九七八
11 宮坂光昭 「出土古銭研究への試論」『中部高地の考古学』U長野県考古学会 一九八二
12 桐原健 「編年資料としての銭貨の限界」『信濃』37ー5 一九八五
13 笹沢浩 「奈良・平安時代の土器について」『長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発堀調査報告書−諏訪市その4−』長野県教育委員会 一九七六
14 川上元 「土師系什器の展開と終焉」『中部高地の考古学』長野県考古学会 一九七八
15 岡田正彦 「平安時代土師器等の編年試案」『信濃』29ー9 一九七七
       「橋原遺跡における古代以降の様相」『橋原遺跡』岡谷市教育委員会 一九八一
16 鵜飼幸雄 「高部遺跡出土の平安時代後期の土器様相」『高部遺跡』茅野市教育委員会 一九八三
17 小林秀夫 「中世以降の遺物」「中世の遺物」『長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書−茅野市その5−』長野県教育委員会 一九八二

18 神沢昌二郎他 『松本市寿小赤遺跡』松本市教育委員会 一九八三
19 小原晃一他 『青木遺跡』駒ケ根市教育委貫会 一九八四
20 今村善興・酒井幸則 『早稲田遺跡(その2)』下伊那郡阿南町教育委員会 一九八三
21 鋤柄俊夫 「中世信濃の東海系移入雑器」『考古学と移住・移動』同志社大学考古学研究室 一九八五
22 年代比定に際しては、中野晴久氏より御教示をいただいた。また、成形技法については同氏の「知多古窯址群における中世陶器成形技法の再検討」『知多古文化研究』T 知多古文化研究所 一九八四を参考にした。
23 前掲書注4
24 市村咸人 「早稲田発掘の古銭について」『信濃』4ー4 一九三五
25 関孝一 「長野県上田市塩尻出土の古銭」『長野県考古学会誌』 一九六九
26 類例としては、猪飼英一『知多古窯甕抵型文拓影集』第二集のV144Zを考える。
27 遮那真周・遮那藤麻呂 「飯田市三穂出土の銭甕」『信濃御殿田』長野県下伊那考古学研究所 一九八一
28 楢埼彰一 「岐阜県中洗井北第一号窯の調査」『陶説』67号 一九五八
29 上田市教育委員会 『中井遺跡』 一九八一
30 周辺より青白磁合子も出土しており、経筒外容器である可能性も考えられる。
31 小林正春氏の御教示による。また、類例は下伊那郡阿智村杉ノ木平遺跡でもみられる。
32 名古屋市立博物館所蔵。実測に際して同博物館の御協力をいただいた。楢埼彰一 「図版解説 二二五」『世界陶磁全集』第三巻(小学館) 一九七七
33 鋤柄俊夫 「東信出土の常滑について」『上小考古』17 上小考古学研究会 一九八四
34 年代比定に際しては吉岡康暢氏の御教示を頂いた。
35 笹沢浩 「豊野町釈迦堂経塚」「鷲寺経塚」『長野県上水内郡誌歴史篇』 一九七六
36 金井汲次 「長野県中野市出土の古銭」『信濃』12ー5 一九六〇
37 吉岡康暢 「珠洲陶の編年をめぐる間題」『珠洲法住寺第三号窯』石川県教育委員会 一九七七
       「珠洲系陶器の暦年代基準資料」『北陸の考古学』第26号 石川考古学研究会 一九八三
38 年代比定に際して藤沢良祐氏より御教示を頂いた。
39 『南木曽町誌』資料編 一九八二
40 藤沢良祐 「古瀬戸概説」『美濃陶磁歴史館報』V 一九八四
41 前掲書注4
42 小山真夫 「信濃国丸子町発見の一葬風」『考古学雑註』17ー7 一九二七
43 佐藤甦信他 『開善寺境内遺跡』伊那市教育委員会 一九七四
44 前掲書注21
45 塩入秀敏他 『深町』丸子町教育委員会 一九七九
46 前掲書注8
47 佐藤甦信・小林正春 『猿小場遺跡』飯田市教育委員会 一九八○
48 飯塚政美 『カンバ垣外遺跡』伊那市教育委員会 一九七九
49 田口昭二 「美濃窯における白瓷碗と山茶碗」『美濃陶磁歴史館報』U 一九八三
50 佐藤甦信 『伊賀良宮ノ先』飯田市教育委員会 一九七八
51 飯塚政美 『北条・常輪寺下遺跡』伊那市教育委員会 一九七四
52 藤沢良祐 「瀬戸古窯址群」T『瀬戸市歴史民俗資料館研究紀要』T 一九八二
53 前掲書註17
54 神沢昌二郎他 『松本市島立南栗遺跡』松本市教育委員会 一九八四
55 宮沢恒之 『昭和47年度長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書−伊那市西春近地区−』長野県教育委員会 一九七三
56 佐藤甦信 一九七五 「松尾南の原遺跡発掘調査報告」『下伊那考古学会会誌』
57 酒井幸則・桜井弘人 『前田遺跡』松川町教育委員会 一九八四
58 前掲書注17
59 信濃毎日新聞社戸隠総合学術調査実行委員会 『戸隠』信濃毎日新聞社 一九七一
60 佐藤甦信他 『駄科北平遺跡』飯田市教育委員会 一九七六
61 前川要 「猿投窯における灰釉陶器生産最末期の諸様相」『瀬戸市歴史民俗資料館研究紀要』V 一九八四
62 横田賢次郎・森田勉 「太宰府出土の輸入中国陶磁器について」『九州歴史資料館研究論集』4 一九七八
63 上田秀夫 「14〜16世紀の青磁碗の分類について」『貿易陶磁研究』2 一九八二
64 矢口忠良 「丈源田W遺跡」『昭和47年度長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書−下伊那郡松川町地内−』長野県教育委員会 一九七三
65 森田勉 「14〜16世紀の白磁の分類と編年」『貿易陶磁研究』2 一九八二
66 小野正敏 「15〜16世紀の染付碗、皿の分類と年代」『貿易陶磁研究』2 一九八二
 他に県内資料の紹介として、檀原長則・小林秀夫 「長野県・小曽崖城跡出土の元青花」『貿易陶磁研究』3 一九八三 が知られている。
67 灰釉陶器の信濃における普及に関して、楢埼杉一氏はO−53号窯期以降、「この時期にはもはや特殊品ではなく、広汎に農民層の日常容器類として、生活什器類のなかに浸透していっている」と考えられている。
 しかし灰釉陶器末期以降、初期山茶碗導入期にみられる急激な東海系小型製品の減少は、日常雑器としての東海系製品の連続的で拡大的な信濃への浸透を示すものではなく、むしろ灰釉陶器の生産を指導した上部構造の変質に伴うものと考えられるものであり、その意味で灰釉陶器の性格には、農民層の需要を反映した日常雑器としてよりも、より生産地の動向を主体とした特殊貢納品的な性格が強く付加されていた可能性も考えられる。
68 前掲書注(4・5)
69 前掲書注21
 新井洋 「平安時代〜中世における煮炊用具−「伊勢型」鍋−に関する若干の覚書」『三重考古学研究』T 一九八四
70 追加資料として、前掲書注5および、一九八六年までの発掘調査資料以外では、下諏訪町下ノ原宮の上・小字宮坂、同町ヤシカ寮敷地内等から東海系壷と常滑窯系甕・一四世紀代と考えられる常滑窯系長頸壷が、茅野市小町屋神殿跡から常滑窯系甕が、下諏訪町東照寺跡から古瀬戸瓶子が(下諏訪町誌編纂委貫会『下諏訪町誌(上巻)』一九六三)、松本市城山から常滑窯系壷が(宮島住敬他『東筑摩郡松本市・塩尻市誌』第二巻上 一九七三)、下諏訪町秋宮経塚、阿南町富草京の森経塚からそれぞれ陶甕が(関秀夫『経塚地名総覧』ニューサイエンス社 一九八四)、箕輪町木下から古瀬戸四耳壷、伊那市西春近安岡城址から、ほぼ完形に近い菊皿九点および天目茶碗等、高遠町御堂垣外から一五世紀後半代の常滑窯系甕、同町引持から常滑窯系甕、駒ケ根市下塩田から壷、南箕輪村神子柴から甕、飯島町本郷から壷が(上伊那誌刊行会『上伊那郡誌』第二巻 歴史篇)(天野忠一『高遠町誌』上巻 歴史一 一九八三)、伊那市西春近村岡から近世初期と考えられる常滑窯系甕が(飯塚政美他『伊那市史』歴史編 一九八四)、開田村からやはり中世末と考えられる常滑窯系甕が(村誌編纂委員会『開田村誌』上巻 一九八○)、宮田村松戸遺跡から常滑窯系の小形壷が(『宮田村誌』上巻 一九八二)出土している。
71 同じく追加資料として、上山田町新山・寄合遺跡から一四世紀代の常滑窯系甕が(森嶋稔氏の御教示による)、信州新町の牧之島城址から天目茶碗、白磁皿、青磁皿、古瀬戸皿類が、安養寺境内遺跡から古瀬戸瓶子等が(森嶋稔他『信州新町史』上巻 一九七九)、中野市壁田城から常滑窯系の甕が(金井汲次氏の御教示による)、戸倉町東福所遺跡から古瀬戸四耳壷が(森嶋稔氏御教示による)、長野市長谷経塚から常滑窯系甕が(森嶋稔「信濃経塚資料にみる二・三の課題」『信濃』33ー12 一九八一)、更埴市一重山から四耳壷が、戸倉町仙石の小松屋敷外西北から十数個の古瀬戸瓶子、四耳壷が(『更級埴科地方誌』第二巻 一九七八)出土している。
72 岡川勇夫 「千曲川沿岸に於ける珠洲焼の分布」『長野』66 一九七六
       「千曲川沿岸に於ける珠洲焼の分布(その2)」『長野』 一九八○
73 金井汲次 「長野県中野市出土の古銭」『信濃』12ー5 一九六○
74 以下第10図の引用文献を記す。
1〜3 長野県史刊行会 『長野県史考古資料編遺跡地名表』 一九八一
4 飯山北高地歴部OB会 『遺跡分布調査報告』T 一九七七
5 牟礼村教育委員会 『矢筒城館跡』一九八一
6 『三水村誌』T 一九八四
7 本文註35
8 金井汲次他 『安源寺』 中野市教育委員会 一九六七
9 中野市教育委員会 「建応寺跡第一次発掘調査」『高井』46 一九七九
  中野市教育委貫会「建応寺跡第二次発掘調査」『高井』50 一九八○
  中野市教育委員会「建応寺跡第三次発掘訊査」『高井』62 一九八三
10 長野県教育委員会 『農業振興地域等開発地域埋蔵文化財緊急分布調査報告書−昭46年度ー』 一九七二
11 注1
12・13本文註36
14 小布施町教育委貫会 『中子塚境遺跡』 一九七八
15・16 注8
17 本文註72
18・19 注11
20 小稿
21 『七二会村史』一九七一
22 桐原健 「中世信濃における大甕のありかた」『高井』71 一九八五
23 小稿
24 森嶋稔他 『更級埴科地方誌』第二巻 一九七八
25 森嶋稔 「信濃経塚資料にみる二・三の課題」『信濃』33ー20 一九八一
26 森嶋稔氏御教示による。
27 森嶋稔他 『坂城町誌』中巻 一九八一
28 宮下健司氏の御教示による。
30 本文註9
31 児玉卓文他 『長門町六反田』長門町教育委員会 一九八三
32 五十嵐幹雄・土屋長久他 『桜畑等埋蔵文化財緊急調査報告書』有料道路発掘調査団 一九六八
33 樋口昇一他 一九八○ 『三郷村誌』T
34 本文註19
35 小林康男他 『丘中学校遺跡』塩尻市教育委員会 一九八三
36 本文註18
37 本文註30
38 山岡栄子 一九七三 「北高根A遺跡」『長野県中央道埋蔵文化財包蔵地発掘調査報告書−南箕輪村その1・その2−』長野県教育委員会
39 小林正春氏御教示による。
40 中野市教育委員会「栗林遺跡第四次発掘調査」『高井』56
41 注40
75 「埋納銭について」 『下右田遺跡第四次調査概報』山口県教育委員会 一九八○
76 都竹清隆他 『江馬氏城館跡発掘調査概報』神岡町教育委員会 一九七九
77 大橋康二 「中世擂鉢考」『考古学ジャーナル』一七五 一九八○
78 京都における擂鉢導入の初現としては、『臨川寺旧境内遺跡発掘調査報告』(財)京都市埋蔵文化財研究所 一九七八のSK20、『同志社女子大学図書館建設予定地発掘調査概要』同志社大学校地学術調査委員会 一九七一のSK340等の資料があり、いずれも一五世紀前半代に比定されるものと考える。
79 信濃北半部を中継地域として関東と北陸の土器様相に共通性が認められることの傍証として、時期は遡るが、おそらく一二世紀前半代にみられる特徴的な土器の一形態として、長野県で疑似高台皿と呼ばれている小型の土師器が、ほぼ同時期に山梨県と石川県で認められる。(『第四回 中世土器研究集会資料』一九八五。吉岡康暢、田島明人、服部敬史氏の御教示による)o
80 その根拠として、第一に魚住窯の北方に位置する西脇市では、東海系の三筋壷または四耳壷に類似した製品を生産する瓷器系の窯が確認されており、その操業時期は一二世紀末頃と考えられている(岸本一郎『播磨・緑風台窯址』西脇市教育委員会一九八三)。このことは、一一世紀末の瓷器系生産拡散期において、その西方への拡大が兵庫県中部にまで及んでいたことを示すものと考えられよう。
 一方魚住窯の製品を検討すると、本来須恵器系中世窯ではみられず、逆に瓷器系窯から出土する高台付の擂鉢が、少数ではあるが認められる。また、特に平安博物館の調査では(寺島孝一・鋤柄俊夫他『魚住古窯跡群発掘調査報告書』明石市教育委員会・平安博物館 一九八五)、一二世紀代と考えられる窯跡から、土師器の羽釜が出土している。
 現時点でこれらの製品が魚住窯の工人集団とどのように関わっていたかを、明確に示すことはできないが、一二世紀代の常滑窯においてもやはり羽釜が認められているのである(杉崎章他 『ニノ田古窯址群』常滑市教育委員会 一九七八、中野晴久「知多古窯址群における山茶碗の研究」『常滑市民俗資料館研究紀要』T 一九八二)。
 そしてこれら3点の状況を前提として魚住窯の甕口縁部の変化に着目すれば、その変化は、端部を尖りぎみに外上方へのばすものから、端部に縁帯を形成するものといった傾向が窺われ、それは常滑窯甕口縁部の変化と一致する。
 当窯は、基本的な窯構造と焼成技術に関しては、須恵器系の生産構造を示すものであるが、新しい流行により影響を受け易い一部の成形技法は、東海系の影響を取り入れることがあったものと考えるものである。
81 佐々木銀弥 『中世商品流通史の研究』 一九七二
 また中世前期における窯業生産周辺の経済状態については、保立道久氏が「中世民衆経済の展開」(『講座日本歴史』3 一九八四)の中で、権力的あるいは制度約な媒介を受けた広域的・地域約需要の両者に応じる地域特産システムと、大量の宋銭流入による代銭納展開の構造を指摘している。


第10図珠洲窯系製品および擂鉢・擂鉢の分布
1 飯山市 一山長者清水 珠洲
2 飯山市 郷谷遺跡 珠洲
3 飯山市 北畑北遺跡 珠洲
4 飯山市 堀越A遺跡 擂鉢
5 牟礼村 矢筒城 珠洲
6 三水村 鐘山遺跡 擂鉢
7 豊野町 釈迦堂経塚 珠洲
8 中野市 安涙寺遺跡 擂鉢
9 中野市 建応寺跡 珠洲・擂鉢
l0 山ノ内町上条志古遺跡 擂鉢
ll 中野市 三つ和遺跡 珠洲?
12 中野市 岩船西条境 珠洲
13 中野市 間山丸山 珠洲
14 小布施町 中子塚境遺跡 擂鉢
15 戸隠村 奥社講堂 擂鉢・珠洲
l6 長野市 西高校校庭 擂鉢
l7 長野市 権堂(スーパー仁科)珠洲
l8 長野市 若穂川田 珠洲
l9 長野市 屋地遺跡 珠洲
20 長野市 四ッ谷遺跡 擂鉢
21 長野市 中尾・田尻遺跡擂鉢
22 信州新町 珠沢
23 長野市 塩崎 珠洲
24 更埴市 村北遺跡 擂鉢
25 戸含町 小丸山経塚 珠洲
26 戸倉町 勝山経塚 珠洲
27 坂城町 社宮神経塚 珠洲
28 坂城町 南日名観音平 珠洲
29 坂北村 岩殿山 珠洲
30 上田市 塩田城 珠洲
3l 長門町 六反田遺跡 擂鉢
32 東部町 桜畑遺跡 擂鉢
33 三郷村 堂原遺跡 擂鉢
34 松本市 小赤遺跡 擂鉢
35 塩尻市 丘中学校遺跡 擂鉢
36 茅野市 御社官司遺跡 捏鉢
37 上田市中井遺跡 捏鉢
38 南箕輪村北高根A遺跡裡鉢
39 飯田市 石行遺跡・栗林遺跡 擂鉢
4l 中野市 茶臼峯峠遺跡 擂鉢